騙されるな!「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」は醜悪なインチキ記事だ!

この「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事インチキです。みなさん、こういう悪質なインチキ記事に騙されてはいけません。しかも、証拠はないですが、「匿名でメールがきました」なんてウソに違いありません。きっと、きっこメソッドを猿まねして責任回避しようとしているに違いありません。

そもそもまず、この記事の高圧的なモノの言い方がムカツキます。コイツ、ぜったい「オレはおまえらより賢い」って思ってますよね。その鼻持ちならない本性が行間から滲み出てます。いったい、何様のつもりなんでしょう? マジ、吐きそうです。「オレって賢いだろ、オレって物が分かってるだろ、オレはおまえらの知らない大切なことを知ってるんだぜ。」って言って、上にたったつもりでいるのが滑稽です。井の中の蛙まるだし。コイツより賢いやつなんて、世の中にはいくらでもいるんだけど、「人間は、自分以下の人間は理解できるけど、自分以上の人間は理解できない」ですから、自分より賢い人間はいないとか、勘違いしちゃってるんでしょう。
以下、アンブローズ・ビアスの事典より、「能力」という言葉の定義を引用します。

ABILITY【能力】
有能な人間が、なんとかして無能な人間から区別してほしいと願い、そのけちな野心がほんの少し満足できる程度に、生まれつき身に備わっているもの。

そもそも、コイツの描いているベンチャー像は、「分かりやすくておもしろくすることしか念頭にないから、デフォルメしすぎで、本人にあまり似なくなっちゃった似顔絵」に過ぎません。実際のベンチャーの世界は、こんな単純なもんじゃありません。もっと悪魔的で天使的な、強烈な魅力を持った魑魅魍魎の渦巻く世界です。それは文字通り筆舌に尽くしがたい(beyond description)世界です。それを、単に自分がウケたいという私利私欲のためだけに、無理やり単純化して、無垢な人々の間に誤解をまき散らしています。一生懸命やっているベンチャーの人々を詐欺師よばわりしているコイツの方が、よっぽど犯罪的です。

そして、なにより卑怯でいやらしいのは、「人々のネガティブな感情につけ込んでいる」ということです。

テレビでオジサン・オバサン世代のコメンテーターが、「それ見たことか、ライブドアなんて虚業だ、やっぱり、額に汗してうんたらかんたら」というのを、blog記事を読むような人種が聞いて、反感や違和感を持つのは、ごく自然なことです。このfromdusktildawnとかいう詐欺師は、それにつけ込み、「それを正当化する屁理屈」を提供しています。blog読者の方のネガティブな感情を煽り立てる最低最悪のやつです。

その悪の手口を、さっそく暴いてみたいと思います。

そもそも、オジサン・オバサンたちだって、自分たちがいままでやってきたようなやり方が、もはや通用しない時代になってきたってことは、うすうす感ずいています。自分たちは、時代に流されるまま、ただひたすら地道に、一生懸命働いてきたけど、いまや、単に一生懸命なだけのマジメ君では通用しなくって、より賢く、合理的に働かなきゃいけない時代になってきているってことは、意識の奥底で、なんとなく勘づいているんです。

一見、一生懸命マジメに働いている人が、「その思考において怠惰である」というのは、よくあることです。ただひたす懸命に働いているとき、「自分は、どんどん仕事を片づけている、仕事をやりとげている」っていう充実感があって、とても気持ちのいいものです。「どうやったら、この仕事をなし遂げられるだろうか?」って、創意工夫して仕事をするのも、とても気持ちがいい。しかし、「そもそも、私は今、この仕事をすべきなのだろうか? もしかしたら他に優先してすべきことがあるんじゃないだろうか?」と考えながら仕事をするのは、苦痛です。「どうやって(How)仕事をうまく片づけようか」と考えるのは気持ちがいいですが、「そもそも私がやっていることは正しいのか? そもそも何(What)をまずやらなければならないのか」を真剣に考え抜きながら仕事を進めるのは、とても苦しい。だから、人々は、無意識のうちに、その苦しい思考を避けて、思考停止したまま、「どうやってうまく「この仕事」を片づけよう」という怠惰な思考に流されたまま、ずるずると現状の延長線上の仕事ばかりを一生懸命やってしまいます。これは、そもそもやるべき思考よりも、自分が気持ちのよい思考を優先してしまうという、極めて自己中心的なオナニー的な仕事の仕方です。相手の女の子がちっとも気持ちよくないことなんかまるでお構いなく、自分だけで勝手に気持ちよくなって射精してしまう自己中セックスをする男性のような働き方です。

極論をするなら、オジサン・オバサン世代は、「与えられた問題を解く」ことを主にやってきた世代で、「そもそもいま解くべき問題は何なのか」という「問題設定をする」ということをあまりやらずに済んできた、もしくは、問題設定をやらなければならないのにもかかわらず、やらないままずるずると日本経済を停滞させてきたかもしれない世代なのです。

これが、オジサン・オバサン世代が、いままでやってきた、「額に汗してして働く」ということのなかに潜む欺瞞の一つです。そして、いまblogを読んでいるような、時代の変化に敏感な人たちは、とうぜん、オジサン・オバサン世代の、そういう仕事の仕方を、「非合理で、不能率で、間違っている」と無意識的に、漠然と感じています。そして、それは、態度や言葉のはしばしに滲み出ます。その滲み出た何かは、オジサン・オバサンたちの価値を否定するような何かです。オジサン・オバサンたちは、「その滲み出た何か」を感じて、本能的に自分の精神を守ろうとします。その「滲み出た何か」は、自分の価値を否定するような何かであるから、そんなものをそのまま受け入れるわけにはいかない。それは、オジサン・オバサンにとって敵なのです。

しかし、同時に、間違っているのは自分たちの方だということは、オジサン・オバサンもうすうる分かっています。自分たちの働き方のどこかに怠惰さがあったことには、うすうす勘づいているのです。ただ、プライドが邪魔して、それを素直に認めることができないのです。そこに、自分たちの存在そのものを否定しかねないような「滲み出た何か」を向けられると、意地になって「額に汗してうんたらかんたらごたくごたく」とわめきださずにはいられなくなります。人間としてごく自然なことです。

にもかかわらず、その「滲み出た何か」を口に出してはっきり言ってしまう堀江さんのデリカシーのなさには、ほんとにあきれてしまいます。それを本にまで書いて出版するのだから、どうしょうもなく空気の読めない方です。一生懸命やってきたのに、自分たちの価値を正面から否定されてしまったオジサン・オバサンたちが、傷ついたような笑みをうかべながら、しぶしぶ「いまの時代は、若い人たちにがんばってもらわなきゃね」と言っているのを見るたびに、堀江さんの残酷さに憤りを感じずにはいられません。まるで、つかまえたトンボの羽を引きちぎって遊ぶ子どものような残酷さです。

だから、今回の堀江さん逮捕のニュースを聞いて、私が最初に連想したのは、息子に虐待を受け続けた老いた母親が、包丁で息子を刺し殺した事件でした。今回の事件は、私もおそらく陰謀っぽい力が働いているのだろうとは思いますが、私はそこに、堀江さんたち新しい時代の勢力に、価値を否定されつづけ虐待を受けつづけた老いたオジサン・オバサン世代の恨みの刃が重なって見えるのです。

そして、こういうオジサン・オバサンたちの心情に思い至らない、虫を引きちぎって遊ぶ子どものように想像力のない、「賢い新世代君たち」は、テレビのオジサン・オバサンコメンテーターが「それ見たことか、額に汗して。。。」というのを見て、単にムカツクだけです。そして、自分たちを正当化してくれる屁理屈を無意識のうちに求めるのです。

そこにつけ込んだのが、「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事を書いたfromdusktildawnとかいう許しがたい詐欺師です。

そもそも、この輝ける大都会を築き上げ、われわれにプレゼントしてくださったのは、いったい誰だと思っているんでしょう?それは、オジサン・オバサンたちが、額に汗して築き上げたものなんですよ。オジサン・オバサンたちが、額に汗して働かなければ、あの六本木ヒルズの輝きも、蜃気楼のごとくはかない夢でしかなかったはずなのに。

にもかかわらず、「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事では、その恩知らずの「賢い新世代君」たちのおぞましい感情に迎合し、それを正当化するのです。

ここで、もっとも重要なのは、それらITベンチャーが、虚業をやっているということではない、ということだ。むしろ、旧態依然とした業界に、つぎつぎに新しいサービス、新しい手法、新しい価値を創造しつづける、その豊かな才能と斬新な発想で、社会に大きく貢献しているということだ。彼らは、たしかにわれわれの未来を創造しつづけている。それは、彼らと直接話してみれば、とてもとてもよく分かる。証券アナリストが彼らのところを訪問して、今後のビジョンを尋ねると、彼らは、常人ではとても思いつかないような、すばらしい見識と洞察とアイデアを振りまく。アナリストたちは、それにすっかり心酔し、彼らこそが、まさに未来の創造者だと確信する。そして、その確信は、極めて正しいことが多い。

ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」がやっている手口は、徒然草の第七十三段で吉田兼好が行っているウソの分析のなかで、「ほんとうに危険なウソ」と分類されているもので、極めて悪質なウソです。

第七十三段
 世の中に語り伝えるのは、事実は面白くないからか、多くは皆、うその話である。人は物事を大きく言ってしまいやすいのに、まして、年月が過ぎ、場所も離れてしまうと、言いたいように語ったり、書いたりしてしまうと、それが事実になってしまう。なにか物事の上手な人の事とかは、その道に詳しくない人は、神業の様に言うけれど、その道に詳しい人は、あまり信用しない。見ると聞くとは、何でも違うものだ。
 こんなことも省みず、口にまかせて言い散らすのは、やがて根拠の無い事とわかる。自分も本当の事とは思わないながらも、聞いたままの事を話すのは、その人のうそではない。真実らしく、所々ぼかして、それでいながら辻褄をあわせて語るうそは、恐ろしい。自分のことを良く言われている嘘(根拠の無い事)は、人は強く否定しない。みんなの面白がる嘘は、「それほどでもないがなあ」と思いながら、しようがなく聞いただけでも、証人にさえされて、事実の様になってしまう。
 とにもかくにも、嘘の多い世の中である。普通の、珍しくない事を心得ていれば、万事間違いがない。世の人の言う事は、驚く事ばかり。良い人は不思議な事を語らない。
 そうは言っても、仏神の霊験者の伝記の場合は、信じるべきでないということではない。だいたいは、頭から信用せず、しかし、疑って嘲るべきではない。(訳中で「うそ」としているところは、根拠のない話といったニュアンスだと思います。)

すなわち、事実をつなぎあわせ、すごくリアリティーの高い、説得力のある文章を練り上げ、そのなかに、ウソを忍び込ませるのです。その文章の多くの部分は、事実に基づくものだから、人々は、その文章全体が、基本的に事実に基づくものだろうという「印象」・「思い込み」を持ってしまう。つまり、たくさんの事実を隠れ蓑にして、ウソを誤魔化すのです。これに加え、まさに吉田兼好も指摘しているように、「自分のことを良く言われている嘘は、人は強く否定しない。」という人間の弱みにつけ込んでいる。ほんとに悪質です。

もちろん、新世代君たちの言い分も、わからないではありません。実際に、多くのオジサン・オバサンたちの行動は、目に余るものがあります。

とくにひどいのが、日本の多くの大企業で行われている、「不公平な」能力主義的人事制度、という矛盾したシステムです。そこでは、オジサン・オバサンたちの世代が、新世代君たちを、能力主義的で厳しく査定し、その価値を決めます。そこでは、オジサン・オバサンたち(主にオジサンだが)は、その人事制度の「対象外」なことがよくあります。オジサン・オバサンは、自分は裁かれない場所にあぐらをかいておきながら、新世代君たちを裁くのです。

こういう環境において、新世代君たちが感じる理不尽さは、それこそ当事者でなければわからないほどのひどいものです。なぜなら、そこでは、「その思考において怠惰である」、「How指向」に慣れきったオジサン・オバサンたちが、現場で「What」の難しさと格闘し、必死で「合理的に、賢く」働こうとする新世代君たちを裁くのですから。しかも、オジサン・オバサンたちの方が、はるかに取り分(給料)が多いのです。実際、私もサラリーマン時代、旧世代の上司に、「What」な思考で設計したシステム提案を理解していただくのに、何度も説明させられ、その能率の悪さにイライラした経験があります。

しかし、だからといって、脊髄反射的にそのイライラをそのままぶつけるのは、サル並です。いや、そんなことを言っては、サルに失礼です。とくに、チンパンジーボノボなどの高等な類人猿は、単にいやなやつだからという理由でやみくもに喧嘩したりしないし、むしろ、必要に応じて敵とさえ同盟を組むような高度な社会的知性を備えています。ちなみに、これについては、霊長類学の世界的権威フランス・ドゥ・ヴァールによって書かれた以下の本が参考になります。

タイトル 「政治をするサル −−− チンパンジーの権力と性」
表紙に書かれている文: 「権力闘争、分割支配、同盟、調停など、高度な政治的行動のかずかずが、チンパンジー社会のなかにすべて見いだされることを明らかにしたドキュメント。「わたしたち人間は、落ちた天使よりもむしろ向上した類人猿に近い」」

つまり、賢く合理的なやり方にこだわる新世代君たちは、チンパンジーボノボほど賢くも合理的にも行動できていないのです。そして、それは、今回、あれほど賢く合理的だった堀江さんが逮捕された構図と重なるのです。堀江さんは、こと「社会的知性」という点に関する限り、チンパンジー以下だったかもしれないのです。

ほんとうの意味で高い社会的知性を備えた人間、いや、正確には、ほんとうの意味で高い社会的知性を備えた霊長類(人間も霊長類である)なら、オジサン・オバサンの面子を立て、花道を用意してあげたうえで、実質的な権限をしだいに奪っていくことに注力するでしょう。わざわざオジサン・オバサンの非をあげつらうようなことをするから、オジサン・オバサンも意地になって過去の自分にしがみつこうとしてしまうのです。彼らだって、うすうす気がついているんだから、彼らのいままでの功績を素直に認めてやり、敬意を払って接すれば、自分のほうから、「単に額に汗して働けばいいという時代は終わった」と言って、新世代君たちが新しい社会をつくるのを応援してくれると思うのですけど。

しかし、これに加え、これよりももっと悲劇的な構造があります。

オジサン・オバサンたちが、「それは円だろ。円に決まってるよ。」と言っているのに対し、新世代君たちはそれに反発して、「それは、長方形だよ。長方形に決まってる。」と言っているにすぎないということです。実際には、彼らは、同じ円筒形をした物体を眺めているにすぎないのに。

オジサン・オバサンたちがしでかした間違いというのは、それが「横から見たら長方形だ」ということに気がつかないまま、ひたすらそれが円だと思い込んで働いてきたということです。しかし、それが「横から見たら長方形だ」ということに気がついた新世代君たちは、それが円だと言い張るオジサン・オバサンに反発し、心の中で「ふざけんなよ、それは長方形だろ」と何度も思います。それを何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すうちに、それが「ざけんなぁ、そりゃ長方形だあ」という気持ちで一杯になってしまった。そして、反発のあまり、それが円でもあるということが、耳たこなだけで、少しも重要なことじゃないかのように思えてきてしまったのです。

ここに、新世代君たちの病理があります。そして、オジサン・オバサンたちは、この病理に本能的に気がつき、ますます自分たちの「円」の価値を確信してしまうのです。新世代君たちが、円の価値を軽視することにたいして警鐘をならすことに、使命感すらおぼえるのです。その使命感にかられて、「額に汗して」を繰り返さずにはいられないのです

つまり、円とは「額に汗して」のことであり、長方形というのは、「賢く合理的に」のことです。そして、「円だ円だ」と言われつづけるのに反発するあまり、この社会の真実は、長方形だと信じ込んでしまった新世代君たちが増えていることに、オジサン・オバサンたちは、危機意識を抱かずにはいられないのです。しかしながら、多くの新世代君たちの直感に反して、現実には、「それが円でもあること」を信じられなくなってしまった人は、一見、賢く働くことがすべてであるかのように思われているベンチャーの現場においてさえも、アテにできるような戦力にはならないことが多いのです。

いや、新世代君たちも、ほんとは、それが円でもあることは、うすうす気がついているのです。しかし、「賢く立ち回る」という価値観にとらわれるあまり、「額に汗して」働かなくてもよいようなユートピアがどっかにあるから、それを探すことこそが、真に「賢い」行動だ、という思いがぬぐいきれないのです。そして、それは、宝くじにあたるような確率ですが、実際にそのユートピアが出現することがあるのです。そして、メディアは、そういう新世代君たちのニーズに答え、ますますそういう宝くじ的な事例を誇大に喧伝し、新世代君たちは、ユートピアの存在を、ますます確信するのです。

だから、テレビで、暑苦しいオジサンコメンテーターが、「それ見たことか、額に汗して。。。」というのに、新世代君はむかつくのです。しかし、「ふざけんなよ、努力なんて意味ねーよ、賢く立ち回ったやつがおいしい思いをするのが、現実なんだよ。インチキばっかいうんじゃねー。」と新世代君が思うとき、じつは、その新世代君も、そのコメンテーターと同じくらい勘違いしています

なぜなら、ユートピアが存在することと、自分が運良くそこにたどりつけることは、別の話だからです。宝くじにあたることを前提に、人生を組み立てることはとても愚かです。そして、宝くじにあたらなければ、世の中の現実というのは、円でも長方形でもなく、円筒形でしかないのです。「額に汗して」の価値は、ITベンチャーがまさに最新のビジネスモデルを構築しようとするその現場においても、まったく失われていません。それどころか、「額に汗して」の価値を軽視すると、たいていの場合は、大火傷を負います。

たとえば、あるITベンチャーの社長は、アライアンス案件においては、「うちも、もっと汗かかないかん」というのが、口癖です。ジョイントプロジェクトでは、プロジェクトの参加企業がどれだけそのプロジェクトに貢献できたかで、レベニューシェアの取り分が変わってきます。しかも、そこでは、単なる成果主義ではなく、結果さえだせばいいのでしょ、と単に賢く立ち回っておいしいところだけ持っていこうとすると、交渉の際に、取り分を大きく減らされます。もちろん、賢く働いて成果を出すのは大前提ですが、それだけでは十分ではなく、積極的に人のやりたくない泥仕事を引き受け、丁寧に、粘り強く、地道に貢献した企業が、人々から尊敬を集め、「こいつらが大きな分け前にあずかるのは、とうぜんやわ」という空気を創り出し、交渉を有利に進めることができるのです。人間もしょせん、動物なのです。こずるく賢く立ち回るという人は、結局、人々の反感をかい、損するような構造になっているのです。それは、旧世代だから、ということだけじゃなく、二十代の若い方ばかりで構成される、ベンチャー同士の共同プロジェクトですら、そういう現実があります。

また、単なる感情論ではなく、現実問題として、額に汗することを嫌い、要領よく立ち回ろうとするプロジェクトメンバーは、どんなに優秀でも、肝心なところで頼りにならないので、ほんとに責任のある仕事は任せられず、結果として、その優秀さに見合った地位や年収をえられないことが多いです。完全実力主義ベンチャーですら、現実には、「額に汗して」の部分が弱い人は、あまり評価されないのです

実際、時代が変化していくその最先端では、もっとも賢く合理的に働く、What指向の、問題を解くことよりも、解くべき問題を考え抜く人ほど、激しく懸命に、「額に汗して」働いています。最高にいい仕事をし、客にも喜ばれ、社内での評価も高く、ついでに、高い年収をもらっています。実際、彼らの仕事の成果は、どのような分野であれ、ほんとうに魂がこもっていて、感動すらおぼえます。そして、その仕事の成果に感動した人々の、感動のオーラが、彼らにフィードバックされ、彼らはますます魂を込め、より高みを目指して、高揚感の中で、さらに気持ちよく「額に汗して」働きます。もちろん、組織自体が病的になっていて、これがうまくまわっていない状態もありますが、基本的にはそういう構図だと思います。

さらに言うなら、今後は、デイトレーダーですらもデイトレーダーたちの手法が高度化していき、単に賢くやるだけではどんどん勝てなくなり、「額に汗して」たくさんの時間をかけて、粘り強く分析し、手法を改良していく者たち以外は、どんどん儲からなくなって、すぐに市場から退場することになっていくと思います。

日本社会は、自由市場社会になっていますから、楽して稼げるおいしいビジネスがごく一時的に生まれることはあっても、市場原理が働くために、すぐにそのオイシさは消滅してしまいます。そして、証券市場は、市場以外のなにものでもないのです。そして、市場であるからには、そこに強い市場原理が働き、おいしいトレードなんて、すぐに消滅するのです。このため、デイトレにおいても、ユートピアという異次元への扉が開くのは、ほんの一瞬でしかなく、いまからはじめたデイトレーダーのほとんどは、いや、いまデイトレーダーで比較的儲かっている人の多くも、ユートピアに飛び込むことができずに退場することになると思います。

つまり、一時的に、円筒が横倒しになって、円の部分が視界から消えたとしても、円の部分がなくなったわけではないのです。「額に汗して」の価値を甘く見る者は、やがてそれが円筒であることを、思い知る日が来ると思います。「賢く」がぜったいはずせない条件であるのと同じくらいに「額に汗して」もはずせない条件だと思うのです。

こうしてみると、「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事は、いかに一面的なものの見方しかできてないかが、よく分かります。この「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事が捏造している「おー、なかなか本質的なんじゃね?」という印象の、そのでっちあげの手口は、この「本質の本質を理解せずに本質という言葉を使うのが流行してる」という記事で指摘されている点を悪用したものです。以下に引用します。

「本質を理解した」、と人が感じるとき、人は対象を単純化してとらえている。
人は、整理し、単純化し、要点を取り出すことができていないと、「分かった」という感じはしない。
しかし、本質自体が複雑なものごとがある。
本質を損なうことなく、整理し、単純化することのできないものごとがある。
たとえば、個別具体的な人間だ。たとえば、個別具体的な社会だ。たとえば、個別具体的な生命だ。たとえば、個別具体的な愛だ。たとえば、個別具体的なソフトウェアシステムだ。たとえば、個別具体的な惑星だ。たとえば、個別具体的な組織だ。
そういうものごとの、「本質を理解した」と人が感じるとき、そこには「理解」の衣を着た「誤解」があるだけだ。
「本質的でない部分を削ぎ落とした」、と本人は思い込んでいるが、実際には、本質を構成する複雑な構造体の大部分を切り捨ててしまっている。それは本質でもなんでもない。
「これがこれの本質だ。」と人々に提示し、人々がそれに納得するとき、本質についての共通理解が得られたわけではない。単に、「利害」が一致しただけだ。共通理解ではなく、お互いに都合のよい共通誤解が得られただけだ。
対象物の本質自体が複雑であるとき、その対象物を扱う正しい態度とは、その本質自体の本質的複雑性と理解不可能性を認めた上で、特定の文脈に依存した特定の共通利害を確立することに満足するに留める、謙虚な態度ではないだろうか。

つまり、「ホリエモン以上に詐欺的なベンチャーの内情」という記事で、fromdusktildawnという醜悪なインチキ野郎がつけ込んだのは、「新世代君たちが共有する共通利害」なのです。

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以上、自作自演によりお送りいたしました。

ちなみに、fromdusktildawnは、どうも多重人格のようで、いまはその中のハイド氏(悪)が暴れ回って、極めて醜い詐欺行為をやっていますが、ジギル博士(善)が意識の全面にでてくることもあり、ジギル博士がでているときに書かれた、もうちょっとマジメなベンチャーの記事は、こちらの「プログラミングとは経営判断の集積である」になります。タイトルからすると、プログラマー向けのように見えますが、内容は、一般の方向けで、最近のビジネスの現場の実情をマジメに解説しています。

ふざけた記事の書き方をして申し訳ありませんでした。
気分を害された方には、心からお詫びいたします。m(_ _)m