「非モテ」と「見境なくブログに攻撃コメントする人」の共通点

通貨の絶対的価値を議論しても結論がでないように、非モテの絶対的な人間的価値を議論しても結論はでない。つまり、現代の通貨の価値が、もちろん、ファンダメンタルズという絶対的な価値の影響は無視できないものの、それ以上に、「他の人々が、その通貨にどのような価値を見いだすか」、という人々の中の心理的な価値づけによって決定されるように、非モテの人間的価値も、非モテだけでなく、非モテ以外の人々も含めた社会全体の人々の心の中の価値づけによって決定されてしまう。

非モテは、このことを、本能的に知っていて、非モテの為替レートを上げるために、さまざまな言動をする。それは、基本的には、企業の広報部門や、IR(Invester Relations)部門がやっている行動と同じだ。ようは、株価対策なんだ。

たとえば、きっこのブログで、企業イメージが下がるようなことを書かれて、株価が下がった企業の人々が感じた憤りと、似たような憤りを、非モテの人は感じることは多いだろう。非モテを貶めるような理屈をを言われて、心穏やかではいられない。そして、その企業のケースでは、きっこのブログの内容を否定する見解を企業が出すことで、株価をもとに戻した。この場合、きっこが正しかったのか、その企業が正しかったのかは問題ではない。そのどちらの場合もあるだろうけど、どちらの場合であれ、やっていることは同じ。つまり、企業の株価を上げようとしている。

優秀な広報マンやIR対策部員といっしょに仕事をしてみればわかるけど、広報がやっているのは、バトルそのものだ。あの、表向きのにこやかな、明るく、爽やかな、温和な顔は、いざ、広報戦略会議の時間になると、滑稽なほど豹変する。ほとんどコージ苑とかの4コママンガの世界である。

広報マンが、どのような活動をするのかは、その企業自体の性質による。所属する企業が、優良企業で、すばらしい価値をたくさん持っている場合、広報マンは、その価値を、正しく人々に伝えることに、仕事時間の大部分を使う。とても建設的で、気持ちのよい仕事だ。

ところが、その企業が劣悪な企業の場合、広報マンは、その時間のほとんどを、自社の悪い点をいかにごまかし、「いや、たしかに、オレは非モテかもしれないが、非モテはそんな悪いことではないし、一般に思われているほど不幸でもない。むしろ、非モテだからこそ、見えていることもある。じつは非モテは、自分を冷静に見られるほにゃららで、見方によっては萌えがどーたらで、むしろ別の楽しみの世界に生きられて、うんたらかんたらごたくごたく」などと、屁理屈をこねて正当化し、自社の価値を捏造することに、仕事時間の大部分が割かれることになる。これは、自社の株価を保つためには、非常に大切な仕事ではある。しかしながら、じっさい、そういう仕事を長く続けている広報マンは、どこか顔が歪んでいて、びみょーに人相が悪い。日々の行動が顔に出るのだ。

ここで一つ重要な点は、ほとんどの非モテは、プロの広報マンのような、広報活動における格闘スキルも格闘センスもないということだ。広報マンが、社内会議のときにしかしないような、般若のような顔を、なんと「表」に向けて広報活動するという激しく頭の悪いことをやり、逆に非モテの株価を下げてしまっているというケースはよく見られる。

しかし、これよりも、さらにもっと重要な点がある。それは、非モテの人々が、「せめて自分たちを敵とみなして欲しい」と無意識のうちに望んでしまうところまで、追い詰められているということだ。

実際、多くの非モテは、「素通り」されている。それも、単に素通りされているのではなく、「単に外見だけが劣っているというような、単に一部に些細な傷があるというようなものじゃなく、絶対的な人間存在として価値の低い、惨めで愚かでくだらない生き物でしかなく、かかわりあいになる価値はない」と「なんとなく」決めつけられて、「なんとなく」素通りされることがよくある。子供のころから何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もそういう扱いを受けていると、「ほんとうに、自分は、そういう価値のない惨めで愚かな生き物ではないのか」という不安感が、否定しても否定しても否定しても否定しても否定しても、心の奥底に塊となって堆積していく。やがてそれは、深い海の底の分厚い堆積岩となり、非モテの精神の基盤の一部を形成するまでになる。

もちろん、非モテは、自分が非モテであることは自覚しているし、非モテである分だけ自分の人間的価値が低くなっていることも、十分認識している。しかし、それと同時に、自分がそれなりに価値のある人間だと思っている。モテか非モテであるかで、人間の価値を決めつける方が間違っていると信じている。ただ、周囲にそのように素通りされつづけると、その信念が脅かされ、不安になり、「自分の価値は、非モテである分だけ少し低くなっているかもしれないが、だからと言って、くだらない生き物として素通りされるほどボクの人間的価値が低いわけじゃない。」ということを、周囲に認めさせたくてしかたがなくなる。そして、それを「実感」する場が欲しい。

その「実感」を得る場が、ネットにおける非モテバトルなんだと思う。そこは、彼らが、自分たちの人間的価値を人々に認めさせる闘争の場だ。それは、存在をかけた闘争だ。

人々に、価値ある人間として認められるのは、人間にとって、ベストな状態だ。逆に、価値ある人間どころか、まったく相手にするまでもないほど無価値な人間と決めつけられて素通りされるされるのは、最悪な状態だ。

そして、この最悪な「素通り状態」におかれると、人間は、「せめて敵として認めてほしい」という屈折した欲望を抱くようになる。

実際、敵とみなされるには、「敵として相手をするに足る人間的価値」を認めてもらわなければならない。誰もが認めるくだらない人間に「バーカ、バーカ」と言われても(攻撃されても)本気で腹をたてる人間は少ない。その、公認のくだらない人間は、自分の人間的価値を判断できるほどの存在だとは自分が認めていないだけでなく、周囲のだれも認めていないから、自分の人間的価値が脅かされないからだ。つまり、価値の低いくだらない人間は、敵としての価値すら認めてもらえない状態にある。

だから、「素通り」という、最悪の状態におかれた人間にとって、「敵と認められること」は、最悪の状態から脱出し、より高い人間的価値を認めてもらうことであり、それは、すばらしい名誉なのだ。

これは、ブログのコメントでやたら噛みついて回ったり、チャットルームで「荒らし」をしたり、2ちゃんねるで人々に喧嘩を売るような発言を繰り返す人の心理と重なる。自分の人間的価値がある程度周囲に認められている人は、ブログのコメント欄で、喧嘩を売って回る心理が理解できない。「争いになると、気分が悪くなるし、ストレスになるし、いいことないじゃん。なんでもっと丸く納めるようなコメントにしないのだろう?」などとしか考えられないのだ。

しかし、非モテに限らず、「素通り」という、人間的に最悪の価値状態におかれている人間は、とにかくだれでもいいから、殴り掛かって、相手から殴り返してもらうということは、快楽なのだ。なぜなら、それは、敵として自分の人間的価値を認めてもらい、自分が最悪の「素通り」状態から脱出していることをリアルに「実感」できる行為だからだ。ああ、自分は、敵として相手をしてもらえるほど価値ある存在なのだ!と感じることで、自分の精神の底に蓄積している、「自分はだれにも相手にされないほど無価値な人間なのではないか」という不安感を、一時的にでも紛らわすことができるのだ。

それこそが、いわゆる「荒らし」の心理であり、20〜30年前に、社会から落伍者と決めつけられた不良少年たちが、やたらと人々に因縁をつけ、喧嘩を売って回っていた心理に通じるものだ。

そして、掲示板やチャットルームの荒らし、ブログの攻撃的コメント、不良少年、非モテの、すべてに共通するのが、この「素通りからの脱出」という屈折した欲望なのだ。

これは、小学生の男の子が、好きな女の子をいじめてしまう心理にも通じている。その女の子に相手にされず、「素通り」されてしまうという、最悪の状態から脱出するために、その女の子を攻撃することで、敵としての存在価値を認めてもらおうとする無意識の行動なのだ。素通りされるよりも、敵として相手をしてもらう方が、はるかに幸福なのだ。

この、「素通りという最悪状態からの脱出の実感」という「麻薬的な快感」こそが、非モテが、はてなブックマーク、blog、コメントを駆使してバトルする原動力なんだと思う。

で、おまえはなんでそんなことが分かるのかって? それは、僕自身が、「素通り」状態におかれてしまっているからです。だからぼくは、一生懸命みんなを攻撃するような言動をして、喧嘩を売って回っているのです。ぼくは、子供のころから、なんの取り柄もない惨めな子供でした。学校では、授業の内容がさっぱり理解できず、テストの点は、どの教科も0点に近く、スポーツの才能もまったくなく、運動会の前日には、学校が火事になって欲しいと祈るほどだし、社会に出てからは、技術系の仕事でも、営業系の仕事でも、なにをやってもぼくには難しすぎてなんの成果もだせず、上司からも同僚からも無能とさげずまれてばかりの人生で、年収は生活ぎりぎりでしかなく。。。(ヒヤリ。こ、これは、殺意。はんぱない殺意。ヤバイ。冷や汗だらだら)。。。などという、みなさんに本気で恨まれかねないような悪質なジョークをぼくが言ったりするわけないじゃないですかあああ。はっはっは。(顔面蒼白。汗だらだら。ヤバイ。な、なんとか、話を逸らさないと。)

えー、で、ですね、なにわともあれ、そんなことを思ったりしたので、ぼく的には、この記事の以下の部分に、基本的には同意なんです。

じゃあ、本当に何を求めているのか。それは一心不乱の殴り合いと相手に蹂躙されることだ。非モテがいくら殴っても効果はなく、そしてモテ・非非モテに殴られ続ける。分の悪い殴り合いの中での殺伐とした空気、悲壮感、絶望感、寂寥感。そして、そこから得られる強烈な自己愛とヒロイズム、狂気。これこそが非モテを満たすものだ。狂気のような恋愛感情など必要ない。

まず、「非モテは、もてたいからネットバトルしているわけではない」という点には、ほぼ同意です。
次に、「非モテが一心不乱の殴り合いを求めている」には、基本的に同意なんですが、補足事項がつきます。たしかに、非モテは殴り合いを求めています。しかし、ぼくに言わせれば、「彼らは殴り合い自体」を求めているわけではなく、「敵として認められることで素通りという最悪状態を脱出しているという実感」を得る手段の一つとして、「殴り合い」を求めているのだと理解しています。
そして、「相手に蹂躙されること」すらも、彼らにとっては快感になりうるので、基本的には同意です。ただ、「相手に蹂躙されること」それ自体は、あまり求めていないと思います。非モテの方々の名誉のために言っておきますが、彼らは別にマゾヒストではないと思います。ただ、相手から強烈な攻撃をたくさんくらうということは、それだけたくさん相手をしてもらっているという実感がわくわけなので、そういう間接的な意味では、蹂躙されることも快感なのだと思います。

。。。。というわけで、非・非モテが、非モテを攻撃し、格闘してあげるのは、非モテの人間的価値を高めて差し上げる、人間愛に満ちあふれた崇高な慈善活動なのです!えっへん!(自画自賛モード)。

あ、いや、モノをなげないでください。危険です。暴力ではなにも解決しません。だから、モノを投げるなってば! おわ! イテ! ぐぇ。ぎゃああああ。ご、ご、ごめんなさいいいいい。わ、わ、わたしがわるーございましたあああああああ。
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