醜い非モテと美しい非モテ

モテにしろ、非モテにしろ、主語が自分なんですよ。
自分よりも、相手のことを気にかける「恋愛」とは、そこが決定的に違う。

恋愛は、1対1でするものだけど、モテや非モテという概念は、1対Nなんだ。
恋愛の対象につく冠詞は、theだけど、モテの対象につく冠詞は、aなんだ。

モテにしろ、非モテにしろ、自分が「女」とか「いい女」にモテれば、それで問題が解決する。「女」とか「いい女」とかいう、ラベルを貼られた抽象的な存在ならなんでもいい。「個別具体的なその人」である必然性なんてない。だから、それが「女」とか「いい女」であれば、交換可能だ。相手の女性を、交換可能なものにまで、貶めている。

そうして、相手を貶める一方で、モテも、非モテも、自分の人間的価値ばかりを問題としてる。モテというのは、自分の属性、それも自分の人間的価値を決める属性なのだから。
自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分。
ちょーキモイ。腐臭がする。Too much of himself.

恋愛というのは、個別具体的なその女性、いや、「女性」などというラベリング、カテゴライズ、一般化、抽象化を一切拒否するような、どうしょうもなく生々しく具体的な、いま現在の、この具体的な場所という、どうしょうもなくリアルな時空間に、絶対的に生々しく存在する、「その存在」を愛することでしょ。なんか上手くいえないんだけど。

モテにしろ非モテにしろ、その存在を、交換不可能な、絶対的にリアルな生々しい存在から、「いい女」とか「いい男」とかの曖昧で茫洋とした抽象概念にして、加工食品のような、癖もなく害もないが、深い味わいもないビニールのパッケージにくるまれた安っぽい味にしてしまう。

モテはコンビニなんですよ。あれば、人生が快適だけど、それがないから人生が台無しになるほどのものじゃない。

恋愛にあって、モテにはないもののうち、最大のものは、あの、「自分の限界を突破する」感じ。恋愛をすると、「自分以上に大切なもの」を実感できる。だから、自分が本能的にしがみついて、固く守っている部分を、明け渡してしまえる。その踏ん切りがつく。これのためなら、自分はすべてを捨ててもいいとさえ思える。それによって「自分を超えられる」。自分にばかりこだわっているつまらない自分を乗り越えて、その向こうの世界へいける。そうすると、「新しい景色が見える」。自分自分と言っているうちは、けっして見ることのできなかった景色。自分というシステムの、いちばん根本的なところを、書き換える感じ。

だから、恋愛をすると、短期間に、急速に自我が拡大する感じがする。自分自分と言っているうちは、自我は肥大するばかりで、拡大はしない。モテや非モテにこだわっていると、自我は肥大するばかり。ぶよぶよとした醜い水膨れになるばかり。自我は少しも強くも大きくもならない。新しい世界はちっとも見えてこない。次のステージへ進めない。

なんていうか、子供のころ、はじめて自転車で隣町まで遠出をして、隣町から、自分の街へ自転車で帰って来たとき、自分の街が、ぜんぜん違って見えたんですよ。あの感じ。

そもそも、自分自分というけれど、「自分」などというものは、錯覚にすぎない。「ぼく」とか「わたし」というけれど、そんなの、ただの代名詞にすぎないんですよ。「わたし」などというものは、もとより存在しない。わたしという代名詞が指し示す実体は、いつも書き換わっている。「もし、ぼくがキムタクみたいになれたら」というけど、「ぼく」という代名詞が指し示す物理的存在を、キムタクという名詞が指し示す物理的存在に類似するように物理的変更を加えたら、それは、何か別の存在であって、もともと、「ぼく」という代名詞が指していた物理的存在とは違う何かなんですよ。ぼくという物理的存在は、その物理的な特徴をそなえた何かでしかなく、その物理的な特徴をそなえているがゆえに、周囲からそのように扱われているなにかであって、その物理的特徴と、周囲からの扱いが、何十年も積み重ねられてきたことそのものが、自分というものであって、それは、常にも変化しつづけるし、境界もあいまい。子供のころの自分といまの自分は、どこまで同じ自分なのか怪しい。恋愛をするまえの自分と、したあとの自分が、どこまで同じ自分なのか怪しい。

だから、そんな、自分自分自分自分自分自分とこだわりつづけるほどのもんじゃないですよ、「それ」は。「自分」というのは、もっと、おおらかで、ゆるやかなもんです。明確な輪郭や固い殻で外界と区切られているものじゃなく、宇宙と連続的に溶け合っているもの。自分の周囲が自分を扱うことや、自分が生まれ育ってきた時空間も含めて、自分を形成しているものなのだから。

というわけで、モテとか非モテにこだわるのって、どうよ?とか感じています。なんか、せせこまい感じがする。ショボイ感じがする。というか、そういうのにこだわる人を見ると、ゴキブリを見るとたたき潰したくなる、あの感情がわいてくるほど。

一方で、自分のモテや非モテにこだわらない非モテが、自分の好きな女の子のためにさりげなく気づかっているのを見ると、すごくけなげで、切なくって、一生懸命応援してあげたくなります。
そういう非モテは、むしろすごく美しいと思うんですよ。

なので、この記事とかそのコメントを読んだとき、同じ非モテでも、美しい非モテと醜い非モテがいるなぁ、とそんなことを、なんとなく思いました。