まず、この記事で紹介されていたUIの話。
あのUIは、オイラ的に解釈するなら、こんな感じ。
まず、いちばん最初に目につくのが、「レトリック」を使った導線設計をしているということ。
つまり、まず、確信犯的かつ計画的にユーザに「誤解」させる。
つまりこの「スクロールバーに見える」というのは、「釣り」なわけで。
ユーザは、それに釣られて、スクロールバーだと思って、使ってみる。
そこで、すかさずネタばらしの「釣り宣言」をする。
「スクロールバーだと思ったでしょーwww。うそぴょーん。」というわけだ。
しかし、「期待を裏切られたユーザ」は、その裏切りの価値を認めるわけだ。
「なんだ、これ、スクロールバーじゃないけど、スクロールバーよりも便利じゃん」というわけだ。
オイラがよくやるブログ記事の書き方と同じだ。唯一の違いは、このUIのレトリックは目論見どおりに成功し、オイラのレトリックは単にすべりまくっているということだ。
あと、これは、女の子を口説くときの、常套手段と同じだ。女の子にどんなプレゼントが欲しいか聞くようなヤボな男がモテるわけがない。その女の子をよく理解し、その女の子が自分自身では明確には意識していないんだけど、心の底で望んでいるようなことを読み取り、それを満たすようなプレゼントを渡して、女の子の期待を「いい方へ裏切る」のが、モテるコツだろう。つぎに、マーケティング的に言うと、このUIは、明確なターゲティングの産物とも解釈できる。特定のsegmented marketにしっかりフォーカスした結果、生まれている。
つまり、このUIは、大量の画像を管理したいユースケースでなければ、意味をなさない。大量の画像を管理したい場合なら、このUIはたいへん便利だが、それほどたくさんの画像の管理でなければ、むしろ、普通のスクロールバーの方が、直感的で分かりやすいだろう。つまり、いろんなケースに対応できる汎用性を捨て、この場合にしか通用しないUIになっている。ドメインスペシフィックだ。
ビジネスモデル的な言い方をすれば、選択と集中がしっかりとできている。
もし、この選択と集中をしなければ、UIの品質が劣化するということがよくわかる。
逆に言えば、劣ったUIというのは、選択と集中の甘いUIなのだ。。。。。とかなんとか、こんな調子で、こんなシンプルなおかずでも、ご飯三杯ぐらいは食べられるような。
もちろん、ぼく自身は、このソフトは使ったことないし、それがどんなふうな文脈で提供されているものかも知らないので、このUIのありがたさを「リアルに実感」することはできない。無理に分析・批評すれば、見当違いなことを言ってしまう可能性はある。だけど、説明のため、それを承知で、少し分析してみたと。
で、本題。
デザインスキルを身につけたい人が、デザインやユーザビリティーの本を読むのにけっこうな時間を費やしているのを見ることがある。
そういう人と話してみると、インタラクティブデザインの本質がどうたらアフォーダンスがどうたら認知科学的アプローチがどうたらと、話がやたらと抽象的で、実感がわかない。
「でさ、たとえば、このUIのデザインなんだけどさ、これがもっとも優れたUIなんだろうか? もっと別のやりかたはなかったのかな? どんな代替案があって、それと比較して、このUIはどのようなメリット、デメリットがあるんだろう? で、総合的に見て、どの案を採用するのが賢いんだろう。」と聞いても、返答はやたらと抽象的で、具体的なことをさっぱり言わなかったりする。
「だから、具体的に、どうなのよ?」とか追求すると、「ターゲットユーザがよく分からないと。。。そもそもどのような実装が技術的に可能か分からないから。。。その問題自体の経緯を知らないから。。。」などなど、要領を得ない。
「そんなもん、オイラだってしらねーってば。だから、たとえば、なんだって。」と追い詰めると、やたらと考え込んじゃって、代替案がさっぱり出て来なかったり、単に本の中に書かれていた例題(たいして関係がない)を紹介するだけで、何分も待った挙げ句、激しく当たり前の、そんなもん口に出して言うことか的なことを言ったりする。
もちろん、「欲望や意図が知覚を生み出す」のだから、そのUIを欲しいとも必要だとも思っていない人が、UIの分析をしたところで、ピントがズレたことを言ってしまう可能性が大きい。また、そのUIを使ってみて、はじめて、感覚的に分かることも多い。
だから、「正しい」見解なんて期待しちゃいないっす。そもそも、オレだってそのUIを話のネタに取り上げただけだから、条件は同じだし、正しい見解を示されても正しいかどうかなんて、判断できやしない。だから、そんなこと聞いちゃいねえって、わかるっしょって。オイラがいってんのは、デザインについて語るのはいいんだけど、もっと実感のわくような具体的な言葉でいってみ、ってことなんで。
で、なんでこんなことになるかと考えてみて、その人は、本を「読んで」いるからなんじゃないだろうかと思ったわけですよ。
本を「読む」のは娯楽であって、勉強ではない。学習ではない。理解でもない。
なんていうか、本を「読む」ってのは、CDをCDプレーヤーにかけているようなものだと思う。
CD=本、CDプレーヤー=脳、って感じ。
本を読んでいる間、自分の脳内では、他人の思考が再生されているだけで、自分自身は考えていない。本を読むというのは、他人の思考をなぞることでしかなく、その間、自分は「思考」していない。
ほんとうに「思考する」というのは、「過去の自分の思考」や「他人の思考」に「逆らって」思考する、すなわち、新しい脳神経回路に通電し、新しい脳神経パターンを開墾することであって、単にすでに踏み固めた道をなぞることではない。単に他人の発言をリピートするのが発言でなく、過去に自分が何度も発言していることを繰り返すのが発言でもないことと同じだ。
また、単に他人の思考を再生するだけでは、新しい脳神経回路ができたとしても、それが、自分自身の中核回路と密結合せず、なんか、辺鄙な飛び地のような、交通の不便な場所に作られた立派なビルのようなもので、結局、そこは中核回路との行き来が不便すぎて、使えない建物になっちゃうんじゃないかと。
自分自身の中核回路にしっかりと組み込むには、レディーメイドの構造物じゃ、きちんとはまらなくって、中核回路との位置関係とか地形に合わせて、オーダーメイドで、構造物を設計しなきゃ、利用したいときに利用したいように利用できないわけで。
だから、具体的なこと聞かれると、言葉がでなくなっちゃうんで。
つまり、血肉になってないわけで。
思考とは、脳神経回路の開墾だから、基本的には思考した分だけしか精神の領土は拡大しない。精神は成長できない。
だから、本を読めば読むほど、「思考する」時間が減って、精神がやせ細ってしまうと思うのですよ。
本を読む時間があったら、どんどん思考した方が、よっぽど自分の能力が増大すると思うのですよ。
だから、本は、素材集とか部品箱として使うのがいんだと思う。本をガシガシかみ砕き、その破片を使って自分の思考を組み立てる。本は読むものではなく、かみ砕き、咀嚼し、自分自身の脳神経システムを改造し、強化し、再構築するための部品として使うもの。作者の本来の意図なんて、二の次なんだって。どうせ、あらゆる文章は、描き終わった瞬間に、ボストンティーパーティーで1776年なわけで、作者の支配下にはなくなってしまうわけで。
また、毎食、タンパク質とか炭水化物とか脂肪とか食物繊維とかビタミンとかを、バランスよくいっしょに食べるのがいちばん心身によいのと同じように、本をかみ砕きながら、同時並行して他の野菜とか炭水化物とかもかみ砕かなきゃならない。
で、他の野菜や炭水化物って何よ? って話なんだけど、冒頭で紹介したような記事がやっているようなことだと思ったわけで。
というわけで、こんな調子で、個別具体的なUIを切り刻み、本に書かれてあることも「読む」のではなく切り刻み、混ぜ合わせて、他人の思考ではなく自分自身の思考でぐちゃぐちゃとよく噛んで、消化し、自分の血肉にするのが、本質的なデザイン能力を身につける最短コースだと思うわけで。