「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うやつはガキで下っ端で負け犬で頭が悪い

人を殺してはいけない絶対的な理由などない。
したがって、人を殺していけない理由をもっともらしく述べる人間はすべて嘘つきである。
たとえそれが、人類史上もっとも偉大な倫理学者のご立派な理論であろうとも、一切はインチキなのである。
そして、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う人間は、多くの場合、「人を殺してはいけない絶対的理由」を尋ねている。すなわち、存在するわけもない理由について尋ねている。もしくは、それが存在しないということを相手に認めさせようとしている。
この質問が、「人を殺してはいけない絶対的な理由」が存在しないことを認めるわけにはいかない立場の人間に対して投げかけられたのなら、それは、質の悪い質問というより、頭の悪い質問である。
そもそも、世の中には、「人を殺すことは悪いことだ」と理屈抜きに「感じる」人たちがいる。「なんでその女の子が好きなの?」と訊かれて、いろいろ理由を説明してみるんだけど、自分の口から出てきた説明は、自分自身、どれもいまいち違うと感じてしまうような説明になることなんて、珍しくもない。なぜだかはうまく言えないんだけど、とにかく彼女が好きなんだ。そうとしか言いようがない。そういう、理屈抜きに、これはすばらしいとか、これは許せないとか、そう感じる感覚だ。
そう感じるタイプの人間、すなわち、理屈抜きで人を殺してはいけないと感じる人間は、自分がそういうタイプの人間であるということ自体で、かなり得をする。さらに言うと、人を傷つけることの嫌いな人間、みんなを幸せにしてあげたいと心から思う人間もいる。そういう人間たちは、とても「有利」だ。それは、実際に仕事をしてみれば分かる。特に、下っ端ではなく、組織の長とか自分でビジネスを立ち上げたりしてみれば、その有利さが実感できる。自分が、心からみんなによくしてあげようと思っているタイプの人間で、誰も不幸にはしたくないと心から思っている人間だと言うことが日々の何気ない行動に表れ、それが相手に伝わるので、ややこしい根回しや説得や交渉に疲弊することなく、みんなが安心して重要な判断を任せてくれるようになるのだ。また、いざというときに、自分のプロジェクトに参加してくれたり、会社を立ち上げたときに、手弁当で参加してくれたりする。決して悪いようにはしないことを、よく知っているからだ。
だから、そういう人間たちは、自分がそういうタイプの人間であることを、みんなに広報するチャンスを密かに狙っていることがある。みんなに知ってもらえば知ってもらうほど、自分の協力者が増えるということを、子供の頃から身にしみて知っているからだ。そして、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と尋ねてくるようなトロいやつは、その、格好の餌食なのだ。
自分が、「人を殺してはいけない」と理屈抜きに感じるようなタイプの人間になってみれば分かるが、ほとんどの場合、「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞いてくるような人間は、その発言の時の、表情の変化、声のトーン、タイミング、ニュアンスなどから、自分とは異質の人間であることが、理屈抜きに感じ取れる。つまり、ほとんどの場合、その質問者は、自分と異なり、「人を殺してはいけない」と理屈抜きに感じるタイプではない、ということが、「感じ」られるのだ。
そして、「人を殺してはいけない」と無条件で感じるタイプの人間にとっては、そういう人間は、醜悪な怪物に感じられる。堂々と非難していい対象であるどころか、堂々と非難すべき対象ですらあると感じられる。そして、自分と同じように「人を殺すことは悪いことだ」と理屈抜きに感じられるようになるまで、もっと人生の修行を積むなり、もっと正しい教育を受けるなりしなければならない欠陥人間だ、と、理屈抜きに感じられるのである。
つまり、またとない、自己正当化のチャンスであり、より優れた人間としての優越意識を存分に味わうチャンスであり、自分の味方を増やすことで、自分の社会的権力を拡大するチャンスなのだ。まさに、いいことずくめなのである。
そういう人間に対して、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問するのは、カモネギ以外のなにものでもない。絶望的に頭が悪いとしか言いようがない。
さらに言うと、学生が教師にそれを尋ねるといったようなケースでは、単に頭が悪いどころではない。教師は、立場上、「人を殺していけない絶対的な理由などない」とは、言えないのである。そういう仕事なのだし、それで生活しているのだ。そして、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う学生は、多くの場合、その絶対的な理由がないことをうすうす気づいている。そして、教師が、立場上、それを認めるわけにはいかないことにも感づいている。にもかかわらず、そんな質問をするのは、それを質問すること自体が、どのような意味を持ち、どのような影響と帰結をもたらす行為なのかについて的確に思考する能力と、その思考によって、自分の行動を制御する意志力がいかに脆弱であるかと言うことの証明である。もし、十分な思考能力と、自分の感情・行動を統御する強い意志力がありながら、この質問をしたのだとすれば、それは、教師に対する卑劣な攻撃であり、たたきつぶされて当然である。
そして、大人になってまでこのような質問をするのは、たいていが下っ端で、しかも、下っ端のまま一生を終わるような小さな人間である。下っ端であるが故に、その質問をあえて口にしないことのメリットを十分に実感できないのだ。そして、それを十分に実感できないが故に、そのような不用意な言動をボロボロやって、自分の権力基盤を拡大することができず、その結果、いつまでも下っ端のままなのだ。
おおよそ、世の中で何か大きなことを成し遂げようと思ったら、多くの人の協力を必要とする。多くの人の、理屈抜きの信頼を必要とする。それ抜きでは、あらゆることが、とてつもなく非能率になってしまうのだ。だから、その信頼を醸成して、構造物を構築していく方法を、感覚的に身につけていない人は、社会に出てから、負け続ける。負け犬になる。そして、現実において何ら力を持たない机上の空論をこねて、自己正当化をし始める。
このブログのように、現実において力を持つ人々を「倫理の内側から出られない人」とか「羽のない生き物」などと矮小化し、現実において力を持たない自分を「倫理の外側の視点をもてる人」、「空を飛べる鳥」と持ち上げて、空想の世界で復讐を果たすなどというのは、そのとても分かりやすい例だ。自分のような惨めな男を鼻にもかけないような生意気なアイドルを、空想の中でレイプしてマスターベーションするような行為だ。他人から見れば、狭い部屋で、だらしない顔で息をハアハアさせながらチンチンを手でしごいている惨めな男がポツネンといるだけだ。
そんな理屈をこねたところで、いい女を抱けるわけでも、うまいものが食えるわけでも、面白い仕事ができるわけでも、心躍る冒険ができるわけでも、誰も見たことのない景色が見えるわけでも、人々の心からの喝采を受けるわけでも、燃え上がり上りつめていく感じを味わえるわけでも、世界が生まれ変わるような感じを味わえるわけでもない。

つーわけで、もっと具体的な価値を目標にした方が人生楽しめると思うね。彼女ともっとエロいセックスをする方法とか、もっとおいしい野菜炒めの作り方とか、わくわくするようなソフトウェアの企画をするとか、最高に盛り上がる旅行の計画を立てるとか。最高にのれる音楽を見つけるとか。

もちろん、そうしなければならない絶対的な理由などないですけどね。

。。。。。なーんて屁理屈を真に受ける人はいないですよね(笑)。

いつものように、そのうち気が向いたら、「騙されるな!「「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うやつはガキで下っ端で負け犬で頭が悪い」はインチキ記事だ!」という記事を書く予定なんで、期待しないで待っててください。

でわでわ。