「女がマイホームにのぼせ上がってしまうと始末に負えない」という記事がもの人々の注目を集めたのは、なぜだろうか?
思慮に欠けるマイホーム購入の話など、ありふれている。
さして人々の注目を集めるような話じゃない。
税理士というプロが書いたので、説得力があったためだろうか?
そんなことはない。
ファイナンスに詳しい人が、マイホーム購入の合理性について解説することなど、やはりありふれている。
この記事が注目を集めた本当の理由は、
「プロが、楽屋裏で歯に衣着せずホンネを言っている」
かのように見えるからだ。
生々しい現場の空気を伴ったプロのホンネは、高い「ホント感」がある。
人は、フォーマル(公式、タテマエ、外向け)な発言よりも、インフォーマル(非公式、ホンネ、仲間内だけ)の発言の方に真実性を感じる生き物だからだ。
テラワロス。この御仁は潜在顧客をバカよばわりしているわけだ。
<略>
客の気が知れない者をプロと呼んではいけない。
テラワロス。
この御仁は、「女がマイホームにのぼせ上がってしまうと始末に負えない」という記事の、本当の価値が見えていないようだ。
この税理士は、単に「客商売では、客との信頼関係を保たなければならない」という、商売の原則に反する、賢くないことをやっているだけだ。
弾氏にわざわざ香ばしい記事を書いてもらわなければ、そんなことすら分からないほど読者はバカではない。
「女がマイホームにのぼせ上がってしまうと始末に負えない」という記事に注目した読者は、そんなことぐらい分かった上で、そこを華麗にスルーしたのだ。なぜなら、その部分は、読者にとって大して重要なことではないからだ。
この税理士が、こんな記事を書いたせいで、商売がうまくいかなかろうが、どうだろうが、そんなことは、読者にとってはどうでもいいことなのだ。それは、この記事自体の価値とは、別の話なのだ。
読者にとって、この税理士の記事が価値があるのは、それが、刺激的で、読みやすく、リアリティーがあるからだ。すっと頭に入ってくるからだ。
刺激的であるためには、ある種のインモラル感は、極めて効果的な要素なのだ。
そして、「女がマイホームにのぼせ上がってしまうと始末に負えない」という記事は、いささか下品で醜悪ではあるが、まさに、それゆえに、インモラル感にあふれており、この刺激性という意味で、十分な価値を創出している。
それによって、記事の書き手の意図とは関係なく、結果として、この記事は、極めて優れた啓蒙になっており、より多くの人を、短慮から来る悲劇から救うことになっている。
もし、この記事が、単にマイホーム購入の合理性を冷静に啓蒙するだけのありふれた記事だったら、ほとんど注目を集めることもなかっただろう。感情を刺激されないからだ。
その場合、この記事に感情を刺激されることによって、マイホーム購入時に、より踏み込んで思慮を重ねたかもしれない人は、その機会を永遠に失うわけである。
学習や啓蒙に第一に必要とされるのは、たんなる知識の解説ではない。
その事柄についてより注意深く考えてみたいと思わせるための、感情の刺激であり、動機付けなのだ。
それについて、「より深く知りたい」という、感情をかき立てられてはじめて、人々は、そのための「分かりやすい解説」を求めるようになる。「分かりやすさ」や「正確さ」はあくまで、感情が十分に刺激された後に来てはじめて意味があるものであって、感情の刺激のないところに、分かりやすく、正しい解説をいくら重ねても、眠くなるだけなのだ。
日本の学校での授業の能率が悪いのは、ここのところの妙味を心得ている教師の数が、あまりにも少ないからだ。
感情の刺激は、分かりやすさや正しさに優先するのだ。