他人のために死ぬと言うこと


「他人のために死ぬ」という感動ストーリーは、何千、何万もの小説、マンガ、映画で使われてきた。
読者を感動させるよい方法を思いつかないときは、とりあえず、このパターンをつかっておけば、それなりの話に仕上がる。


そして、「他人に場所を譲るために死ぬ」というのも、そのバリエーションの一つだ。
その典型が、よく小学校の教科書などに載っている「ゆずり葉」という詩で、私のような安い人間は、この詩を読み返すたびに、涙が出てくる。


しかし、ひとしきり感動の涙を流した後に、頭を冷やしてみれば、「自己犠牲の感動」という麻酔薬にやられて、肝心なところがいくつもごまかされてしまっていることに気がつく。


それは、ほんとうに自然の法則に従った行為なのか?
「他人のために死ぬ」と公言するのは、本当に人間として美しい行為なのか?
そもそも、他人のために死ぬ「必要」があったのか?


「お釈迦様をもてなすため、なんのプレゼントも持たないウサギが、自らたき火の中に飛び込んで、お釈迦様に自分自身を食べてもらう」、という仏教説話があるが、必要もない自己犠牲によって、無理矢理読者を感動させに行ってるんじゃないのか?



そもそもまず、「自分以外のもののために死ぬ」という行為のバリエーションは、大きく、2つの要素から成り立つ。

(1)他者のために自分が死ぬ
(2)全体のために自分が死ぬ

このうち、(1)については、まず第一に、そもそも自然界では、他者に席を譲るために生物は死んでいるのだろうか?という疑問がわく。
たとえば、他の菌に席を譲るために自殺する菌などというものはいない。むしろ、他の菌を押しのけて、可能な限り身勝手な増殖を続け、生き続けられる限り生き続けようとするのが、菌一般に見られる姿勢だ。
腸内菌層などで、様々な菌がハーモニーを作り出しているように見えるのは、単に三すくみ状態になったり、利害が一致しているからに過ぎず、譲り合いの精神からハーモニーが作り出されているわけではない。


さらに、高等生物においても、「他者に場所を譲るために老化して死ぬ」という遺伝子は、進化論的に存在し得ない。「古きものが道を開けてあげる」ために死ぬようなことは、ありえないのだ。
404 Blog Not Found 不死の本当の意味

なぜ我々は「壊れる」前に「死ぬ」のか?
これの答が、「古きものが道を開けてあげること」だ。


たとえば、あるサルの集団では、老害がはびこっていたとする。
ある特定の個体がいつまでも社会の中枢にのさばり続けることでその社会を停滞させたり、あるいは、環境変化が起きたとき、頭の固い長老が権力を握っているせいで、集団全体の環境への適応ができなくなっているとしよう。


そのため、進化のある時点で、「個体をプログラム的に老化させ死亡させる」という遺伝子が生まれたとしよう。この遺伝子が集団全体に広がることにより、その集団では、社会の新陳代謝が促され、環境変化が起きたときも、適応能力を持つ新しい個体が古い個体と入れ替わることで、集団全体の適応能力を維持するとする。


しかし、「老化による死」の遺伝子を全ての個体が持つ、このサル集団の中に、あるとき、その遺伝子が傷ついて機能しない個体が生まれたとする。その個体は、「老化による死」の遺伝子が傷ついていて、正しく機能しないわけだ。
このため、この変異体は、集団の中の他の個体よりも、長生きする。このため、いつまでも若いまま長生きして生殖活動を続けるため、他の個体よりも多くの子孫を残す確率が高い。したがって、そのうち、この変異遺伝子は、集団全体に広がっていき、やがては、このプログラム死の遺伝子を持っている個体は、集団内から、完全に消滅してしまう。


このように考えると、そもそも、「老化による死」の遺伝子など、発生したとしても、すぐに自然消滅してしまうものだということが分かる。*1


要するに、我々は「老化して死ぬ」ようにプログラムされているわけではないということだ。老化も死も「必要」だったわけではないのだ。*2


もちろん、多細胞生物においては、細胞による自殺(アポトーシス)という現象があるが、後述するように、サル集団と個体の関係と、多細胞生物と細胞の関係は、全然別のものであり、アナロジーとしては、大腸菌のコロニーと大腸菌の関係の方が、まだむしろ妥当だろう。多細胞生物において、細胞が他の細胞に場所を譲るためにアポトーシスすることと、サルの個体が他のサルの個体に場所を譲るために老化して死ぬことは、ぜんぜん別のことなのだ。


次に、ほとんどの一般人が不老処置を気軽に受けられるようなほど科学技術の発達した近未来の人間社会において、はたして、「他者に場所を譲るために死ぬ」必要は、どれほどあるのだろうか?
あまり先の未来は、基本的に予測不能で、現代の社会状況からそれを予測して判断しても、鬼が笑い死にすると思うのだ。
たとえば、そもそも、そういう社会においては、老人介護の問題はないだろう。老人が存在しないからだ。
人口爆発が問題なら、子供を作った人間は、一定期間後死ななければならないという法律を作ればよい。ずっと生き続けたい人は、単に子供を作らなければいいだけだし、子供に場所を譲りたい人間は、法的な手続きをふんで死ねばよい。
可能性だけなら、どんな可能性だって想定できてしまうのだ。


さらに、それほどの未来社会においては、現在居住可能でない砂漠、寒冷地、海洋上にもたくさんのコロニーが作られ、衣食住の生産性が今とは比較にならないほど高く、いまよりもはるかに多くの人口を養えるようになっているかもしれない。そもそも、この惑星の70%は海なのだ。海洋上のコロニーに住めるようになれば、居住空間は、一気に広がる。エネルギー資源問題も、いままでとは違う解決法が取られているかもしれない。


それでもなお、この惑星が収容限界を超えてしまうような時代には、太陽系に広がっていくだろうし、太陽系全体で収容できる人口は、とてつもなく多いだろう。その太陽系すら満員になるほどの未来なら、銀河に広がっていったとしても不思議はない。やがて、銀河全体が生命で満ちあふれるかもしれない。


いずれにしても、そこらへんは、我々の想像力の限界の外側にあるものであり、現在の社会状況から、想像の及ばない未来社会の状況を想定して、「他者に席を譲るために死ぬべきだ」という結論を導き出せるものだろうか?
すくなくとも、現在のテクノロジーでは、不老はすぐには不可能なので、それを語っている時点で、それは未来社会におけるモラルを語っていることになってしまうのだが。


また、(2)の「全体のために自分が死ぬ」における「全体」とは、国家であったり、社会であったり、ガイア仮説のように惑星であったり、弾小飼氏のいうように、40億年生き続けた「生命」であったりする。そのとき、アナロジーとして、個人を、人間の体を構成する細胞のようなものだと例えたりすることがよくある。


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それでは、なぜ生命は死を発明したのだろうか?
生命そのものを不死にするためではないか?
そう。生命そのものは「生まれてこのかた」死んだことがないのだ。もう40億年も。40億年も生きてきた細胞はまずないはずだし、種もまたないだろう。しかし生命そのものは、40億年途切れたことがない。生命というスケールで見れば、個体や種の死というのは、人間にとっての細胞の死程度しか意味しないのだ。

実際、個々の細胞は、体全体のために、自殺することがあり、それはアポトーシスと呼ばれる。それは、ゆずり葉のイメージとだぶる。たとえば、母親の胎内で、胎児の手ができあがるとき、最初は指がすべてくっついた状態になっているが、指と指の間の細胞が自殺することで、指が形成される。あるいは、活性酸素などで分子的劣化が進んで機能しなくなった細胞は、細胞内の自爆装置が作動して、アポトーシスが引き起こされる。
細胞は、どれも、自分の死ぬべき時と場所において、そのときが来たら、「全体」のために潔く死ぬのである。そして、それによって、人間という個体は生きていられる。


しかし、個人と「全体(社会、国家、惑星、生命全体)」との関係は、果たして細胞と人体の関係に例えられるのだろうか?もしかしたら、大腸菌大腸菌のコロニーの関係というアナロジーの方が適切ではないのか?


人間の場合、とくに脳神経システムでは、神経が絶え間なく発火し、神経伝達物質が放出され、ホルモンが放出され、高速に電気インパルスがとびかい、ある一つの、動的に変化し続ける情報体を形作っている。それが、「意識」の正体だ。人間は、このような「意識」のある有機体を尊いと思うのであって、「意識」と言えるほどのもののなさそうな大腸菌のコロニーをそれほど尊いものとして崇めたりはしない。


そして、弾小飼氏の言う、40億年の歴史を持つ「生命全体」は、人間のような「意識」を持つのだろうか?
そこには、絶え間なく発火し続け、情報を受け渡しあい、全体で一つのまとまった思考や感情をが存在するのだろうか?


少なくとも、私の部屋にある鉢植えのポトスは、私の大腸に住み着いているたくさんの細菌や、家の前の公園で風に揺れているイチョウの木と高速で電気信号をとばし合っているように見えないし、それらが全体で喜怒哀楽や思考の流れを持っているようにも見えない。


そんな、喜怒哀楽や思考がどれほどあるのかよく分からない「生命全体」のために、「かけがえのない個々の人間の生」が犠牲にならなければならないという理屈は成り立つのだろうか?
もちろん、全体が無ければ、個人も存在しない。しかし、だからといって、全体のために個人が死ぬのは当然であるという結論は、そこからすぐに導き出せるようなものではないのではないか。


こうしてみると、「他者に席を譲るために死ぬ」という理屈自体は、穴だらけであることがわかる。


しかし、穴だらけであること自体が、問題の本質なのではない。


たとえば、部下を持つ上司や子を持つ親は、常日頃から、「自分は他者のために身を捧げる人間だ」ということをアピールし続けなければならないプレッシャーにさらされている。
もし、利己的な人間だと思われたら、マネージメントも子育てにも支障が出てしまうからだ。


そういう人間は、どんなに穴だらけ、矛盾だらけであっても、無理矢理にでも、「自分は、他者のために席を譲るような謙虚な人間だという」ことをアピールするような理屈を組み立て、結論をでっちあげなければ立場が危うくなってしまうのだ。


また、それは、たんなるでっち上げにとどまらない。
部下にしろ、子供にしろ、常日頃接している相手に対しては、口先だけのウソでは、ごまかしきれない。
心の底から、「自分は他者のために席を譲るぞ」と自分を洗脳し、かつ、その通りに行動し続けなければ、たちまち正体を見抜かれてしまうのだ。


そして、このように自分を洗脳することで、彼は、単に政治的に有利な立場を手に入れられるだけでなく、もっとはるかにすばらしいものを手に入れられる。


それは、自分の生を価値あるものを感じ、それを人々に祝福され、かつ、自分自身の生より価値あるもののために生きて、死ぬという幸福を手に入れられるのである。


「自己意識宇宙の絶対的な終焉である死」に対する「発狂するほどの恐怖」に苦しみ続ける生などより、どんなにかすばらしい人生ではないか。


弾氏の記事からは、そういう原理で形成された弾氏の心理構造が読み取れる。
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一通り笑った後に少し考えれば、実は「生」と「非モテ」にも共通点があることがわかる。「器の有限性」、もしくは「椅子取りゲーム」だ。哲人は他者の生を押しのけてまで得る「不死」を、「非モテ」は他者の愛を押しのけてまで得る「モテ」をそれぞれ嫌悪しているというわけだ。私はそれを Humility、謙虚と呼んでいる。立派な見識であるとも思う。

だからといって、今自分が得た生、自分が得てきた愛を簡単に手放そうとも思わない、自分--の魂が謙虚にならずとも、自分の謙虚な体がちゃんととどめを指してくれることを知っているから。

究極の手前味噌かも知れないが、謙虚な肉体に傲慢な魂の方が、傲慢な肉体に謙虚な魂より健全だと今では考えている。


しかし、それを十分以上に理解した上で、あえてそれを選ばず、「自己意識宇宙の絶対的な終焉」としての死と血みどろの死闘を演じ続けたものたちもいた。


他者のために潔く死んでいこうとする人に比べると、「自己の死」などという私的にも見える問題に、延々とこだわり、悩み続けるというのは、どこか不道徳な印象がある。少なくとも、他者のために生きて死ぬ人のようには、人々に愛されないし、尊敬もされないだろう。


ぶっちゃけ、他者のために生きると言いまくって生きる方が、得なのだ。それに比べると、実存的な死の問題を追い続けるのは、損なのだ。
それにもかかわらず、敢えてその得を捨て、損をとるような人生を歩んだ人たちが、確かにいたのだ。


そして、「他人に席を譲るために死ぬ」などと臆面もなく公言するような人間よりは、そういう人間の方が美しいかもしれない、という思いがよぎることも、ときどきあるのだ。

*1:遺伝子の変異により、寿命が2倍になったショウジョウバエのミュータントがおり、これは、老化遺伝子が抑制されたためではないのかという見方もある。すなわち、老化を促す遺伝子が存在することの証明ではないかと。しかし、寿命が2倍になったのは、あくまで、豊富な食料が安定して手に入るという特殊な実験環境で確認されただけだということだ。これが、限られた食物がとぎれとぎれにしか、手に入らない自然界においては、逆に寿命が縮んでいた可能性も十分に考えられる。たとえば、細胞内の分子構造が破損するときに、それを修復するメカニズムがあるが、そのメカニズムが作動するとき、けっこうなカロリーを消費する。細胞内の分子構造の修正メカニズムを2倍動かせば、それだけ細胞の分子的損傷がたくさん補修されるため、細胞の老化は遅くなる。しかし、そのぶん、2倍のカロリーを消費するわけで、そうすると、細胞自体は、いつまでも若々しいが、食料が手に入りにくくなると、餓死しやすくなる。実際に、対となる遺伝子の、片方だけ、この長寿遺伝子を持つショウジョウバエは、寿命が2倍になったものの、両方の遺伝子が、長寿遺伝子になったショウジョウバエは、逆に寿命が短くなってしまっている。これは、いかに食べ物の豊富な実験環境といえども、消化器官で消化吸収可能なカロリーを上回るエネルギーを、細胞の分子構造の補修メカニズムが消費してしまったため、ひたすら食べ続けても餓死してしまったのではないかという解釈が可能だ。もしそうだとすると、やはり、これは、単に細胞の分子的修復メカニズムが暴走してしまう遺伝病をもったショウジョウバエに過ぎず、老化による死をもたらす遺伝子ではないということになる。いずれにしても、老化というのは遺伝子だけでなく環境も含めたたくさんの複雑な要因の組み合わせで決まってくるのであって、環境要因や他の遺伝子との相互作用を一切無視して、ある特定の遺伝子が単純に寿命を決定するというようなことは考えにくい。

*2:じゃあ、なぜ、個体は老化するのかというと、遺伝子にとっては、個体を使い捨てにしたほうが、遺伝子の生存確率が上がるから。10年使い続けられる1個10万円の割り箸より、1時間しか使えない1個10円の割り箸の方が、コストパフォーマンスがよいから。進化ゲームは、遺伝子の生存・増殖確率を最大化する数学モデルであって、個体の寿命を最大化する数学モデルではない。遺伝子の生存・増殖確率を最大化することがまず最初にあって、そのために適切な個体寿命が、コストパフォーマンスを考慮して設定される。たとえば、大量のカロリーを消費する不老の個体は、自然環境では、逆に餓死するリスクがあまりにも高く、逆に寿命は短くなり、淘汰されてしまったという可能性も考えられる。