賃金というのは、次の二つの要因だけで大部分が決まってしまいます。*1
(1)生産性
(2)参入障壁*2
具体的には、次の図のような構造で個人の賃金が決まります。*3
まず、ガーナ人と日本人の賃金の違いの大きな部分は、
●日本社会の平均的な生産性が高い
●ガーナ人が日本で働くための障壁が高い(紫色の囲い)
という二つの要因で決まります。
また、そのメカニズムは労働流動性によって機能します。
そして、同じ日本国内の職種間の平均賃金の違いの大きな部分も、
●その職種の平均的な生産性
●その職種に就くための障壁の高さ(紫色の囲い)
によって決まります。
職種間の賃金格差は、国家間の賃金格差の相似形です。
たとえば、日本のテレビ局の社員の賃金が高い理由の大部分は、テレビ局社員の平均的な生産性が高いせいと、テレビ局社員になるための障壁が高いせいです。
そして、テレビ局社員の平均生産性(労働の生産性)が高いのは、テレビ局自体の生産性(資本の生産性)が高いせいです。
そして、テレビ局自体の生産性が高いのは、テレビ局が利権を独占しているからです。
もし、電波帯域が無限に使え、誰でも低コストで自由にテレビ局を開設できるのなら、テレビ局の生産性は、しだいに下がっていくはずです。電波帯域=テレビのチャンネル開設権がコモディティー化するからです。*4
そして、先進国の平均的な生産性が高いのも、先進国が、歴史的・地理的な偶然の積み重ねで、たまたま先に産業集積を築き上げ、その産業集積を独占しているという構造から来ている部分があります。
産業集積は、先に集積したものが有利になる構造があるので、ある意味、利権化する部分があるのです。
もちろん、産業集積は 先進国が持つ利権のうちの一つの例に過ぎません。
さらに、会社内での職位の賃金の大きな部分も、
●そのポジションの平均的な生産性
●そのポジションに就くための障壁の高さ(紫色の囲い)
で決まってくる部分が大きい。
これも、相似形です。
たとえば、プロジェクトリーダーの生産性が高いのは、そのプロジェクトリーダー個人の生産性が高いというより、プロジェクトリーダーという役回りの生産性が高いという部分が大きいのです。
たとえば、10人の部下をかかえるプロジェクトリーダーだと、創意工夫でプロジェクトの生産性を50%あげると、5人分の利潤に相当するものを生み出せますが、それは、必ずしもプロジェクトリーダー個人の生産性だけで生み出されたものではなく、その人間がプロジェクトリーダーという役回りを得たために生むことの出来た利潤なのです。
もし、職種間の参入障壁がなくなり、全ての賃金が完全に労働力の需給バランスだけで決定され、人々が純粋に金のためだけに職業を選んだとしたら、職種間の生産性の違いに関係なく、職種間の賃金格差は消滅します。
お掃除のオジサンだろうが、ゴールドマンサックスの社員だろうが、全ての職種で、同じ賃金になるのです。
もし、国家間、職種間、社内のポジション間の参入障壁がすべてなくなったら、生産性の違いに関係なく、日本人だろうがガーナ人だろうが売春婦だろうが経理のオジサンだろうが会社役員だろうが、国籍、職業、社内の地位による賃金格差は一切なくなります。
後に残るのは、個人の生産性の違いだけです。
平均的な翻訳者の3倍の品質と10倍のスピードで翻訳の出来る山形氏の賃金が平均賃金の30倍になるだけです。
しかし、現実には、障壁というのは、能力の裏返しであるケースも多いです。
たとえば、ゴールドマンサックスの社員になるためには、単に高学歴なだけでなく、厳しい面接試験をパスできるだけの能力が必要でしょうが、それは、参入障壁であると同時に、ゴールドマンサックスの社員としての生産性の源泉でもあります。
ようするに、障壁には、2種類あるわけです。
価値を生まない単なる障壁と、生産性に直結する能力と表裏一体である障壁です。
もし、能力と表裏一体となっている障壁だけを残し、全ての障壁を取り払うなら、後に残った障壁は、もはや障壁ではなく、単に能力に応じて職業や職種が決まっているだけのことです。
ゴールドマンサックスの社員の給料が高いのは、高い能力を持っていないとトレーダーになれないから、というただそれだけの理由です。
それでは、もし、能力と表裏一体となっている障壁以外の障壁を全て取り除き、能力に応じて賃金を分配するような世の中を作ったとしたら、それは公平な社会といえるのでしょうか?
しかし個人の生産性は、本人の生まれつきの才能や、両親や日本国の教育投資や、さまざまな出会いや偶然から決まってくる部分も大きいです。
賃金を決定するファクターのうち、純粋に「本人の努力」の成果と言える部分は、かなり小さいのです。
さらに、能力の価値は、予期しきれない社会構造の変動で簡単に不良債権化します。
たとえば、ある食品流通会社の部長は、古いスタイルでの食品流通の知識・経験・ノウハウは非常に高いのにもかかわらず、社会構造の変動で、そのノウハウの社会的ニーズが劇的に少なくなり、長年育ててきた能力が不良債権化してしまったとします。
もちろん、それも、将来の労働力需給バランスを予測し、マーケティングし、戦略的にスキルアップしてこなかったためであるから、どこまでも自己責任である、という議論も可能です。
しかし、Googleの創業者と同じような才能を持ち、こだわりを持ち、努力をしたのにもかかわらず、Googleになれなかった人たちは無数にいます。
たまたまこの番号は必ず当たるに違いない、という強い思いこみで宝くじを買い、実際に宝くじに当たった人は、結果から見るとすごい先見性があるように見えますが、実際には、それは単なる結果論です。
Googleの創業者は、Googleが必ず成功すると信じていたかも知れませんが、実際に成功するかどうか、その時点では、当人たちですら、きちんと予見はできなかったのです。
こうして考えてみると、たとえ一切の障壁がなく、完全な自由競争によって賃金が分配されたとしてさえ、賃金格差をどこまで正当化できるのか、かなり怪しく感じられます。
しかも、現実には、直接能力とどこまで関係するのか怪しい参入障壁の積み重ねで、人々の賃金のかなりの部分が決まっています。
つまり、理想的な状態においてさえ、賃金格差は必要悪でしかなく、現実には、賃金格差は、道義的に正当化できる根拠はかなり怪しいのです。
さらには、「賃金格差を拡大させたにも関わらず生産性が向上しなかったケース」など、現実にはいくらでもあります。
アメリカで過去に飛躍的成長をとげ、今も超優良企業であるような企業の調査研究があるが、役員報酬額と会社の飛躍的成長の間には、ほとんど相関がなかったという結果になったのも興味深いです。
たくさんお金をもらったから、たくさん成果を出すとは限らないし、たくさんお金をもらうためにたくさん成果を出すとも限らないのです。
さらに、賃金格差を正当化するのは、能力というより成果でなければならないですが、現実には、望み通りに機能するような成果評価システムを作るのはかなり困難なことも多く、その弊害も多いでしょう。
つまり、賃金格差の拡大は、もしかしたら必要悪ですらないかも知れないのです。
だから、丁寧に駅のお掃除をしてくれるオジサンに、みんながもう少しだけ多めの敬意と報酬を払う社会であってもいいのではないのか、とよく思うのです。
というわけで、「池田信夫 blog 賃金格差の拡大が必要だ」という記事に対する違和感を書いてみました。