日本のソフトウェアビジネスが今後もずっとアメリカの足下にも及ばない理由


アメリカのように、異なる民族・宗教がごたまぜになっているところでは、
「〜だろ、常識的に考えて。(AA略)」
と言ったところで、その常識は、アングロサクソンと、ユダヤと、イスラムと、黒人と、東洋人と、アーミッシュと、ゲイと、ヴィーガンでは異なりますので、「空気」や「常識」だけで何かを肯定したり否定したりするのは困難です。


だからマッキントッシュ、ネットウェア、ロータスノーツ、JavaGoogle。。。。といった、トンデモないソフトウェア構想を主張しても、
「そんなトンデモないソフトウェア、使うわけないだろ、常識的に考えて。(AA略)」
と言ったところで、
「それは、どの民族の、どの宗教の、どの文化における常識でダメだと言ってるわけ?」
ということになります。


異なる民族・宗教を超えて、共通した世界像を作り出そうとすると、民族・宗教の常識の皮を剥ぎ取った、裸の人間や社会の根本原理に基づくような「メタ文化」が必要になってきます。


似たようなことは、ギリシャ哲学が生まれた一因にもなっています。
当時のギリシャは小さなポリス(都市国家)が散らばっていて、それぞれのポリスは、さまざまな異質な民族・宗教との摩擦や交易がありました。ひとかたまりの大きな国に比べ、異文化との接触面積が大きかったのです。
そういう場所で、異質な民族と共通了解を持とうとしたとき、自分たちの世界観の中に閉じこもるのではなく、「裸の人間の根本的な本能、欲望、認知システム」に基づいた、根本原理を打ち立てようとする動機がありました。
そして、その共通了解を、特定の民族や文化に依存しない形で作り上げるためのユニバーサルプロトコルである「対話」という手法を編み出したのです。*1
「対話」は、「メタ文化」の重要な構成要素なわけです。


東洋思想が、先人の権威や思想を延長する形で発展してきたのに比べると、ギリシャ哲学は、先人の世界像モデルを、いったんゼロリセットして、根本から書き換えるパターンがとても多いです。
そして、その、「世界像を根本的に書き換える」という思考スタイルは、その後の西洋思想のベースになってきました。


途中、キリスト教文化という「権威と空気」に覆われましたが、結局、ギリシャ哲学を起源とする「世界モデルを根本的に書き換える」という種が、キリスト教文化の子宮の中で眠っていた中世ヨーロッパの中で発芽し、キリスト教の子宮を引き裂いて血まみれの枝を突き出して葉を広げ、「科学」と「近代」という巨大な樹木に成長しました。


「世界の根本原理を書き換える」というのは、既存の社会の否定であり、ある意味、全世界に立ち向かう行為です。
それは、和を乱す行為であり、反体制行為であり、危険な行為であり、無責任な行為であり、傲慢な行為です。


だから、日本では、大企業での約束されたエリート人生をなげうって、小さなベンチャーに転職するような知的にパワフルな若者はほとんどいません。
また、むちゃくちゃリスクが大きく、その将来性の計測もほとんど不可能なのを承知で、リスクと期待値を冷徹に計算した上で、その構想に投資しようという山師的な投資家もいません。
大企業で蓄積した強力なマネージメントとマーケティングのスキルを持った「大人」が、大企業での地位を捨てて、そういう構想の支え役に回ることもあまりありません。
寄らば大樹の陰。長いものには巻かれろ。
ブランド大学、ブランド企業、権威、既得権益サイコー!


一方で、アメリカには、「世界の根本原理を書き換える」というのは、勇気ある行為で、わくわくするような行為だと考える人々がけっこういます。
世界そのものに、挑戦状をたたきつけるとは、大したヤツです。
絶対的な神に反旗を翻し、山のようにそびえる巨大な神を殺害し、神の血のしたたる剣をひっさげた、黒衣のイケメンのアンチヒーローです。
そのために、大企業や大学での地位をなげうって、トンデモないソフトウェア構想に参画するとは、イケてるカッコイイやつです。
性別に関係なく、男らしいです。マッチョです。
どんなにシビアに計算しても、どうなるかさっぱり分からないリスキーなソフトウェア構想に、札束をポンと放り投げるのは、イケてる投資家です。


このとき、重要なのは、社会が既得権益でガチガチに固まっているかどうか、ではありません。日本だろうと、アメリカだろうと、どこの国でも既得権益にしがみつく体制側のガチガチ保守オヤジどもが社会を固めているのは同じです。そこの部分は世界共通です。
日本とアメリカで異なるのは、世界の在り方を根本的に変えてしまうような芽が現れたときに、体制側に反旗を翻し、その芽を育て上げようと人々が結集する文化があるかないか、という部分です。
アメリカの場合、そういう保守オヤジどもに、若者たちが革新的なソフトウェア構想で反旗を翻すと、革命軍側にパワフルな若者たちが人生を賭けて志願するし、大人たちの中からも、革命軍側につく人たちが出てくるのです。そこが、日本とアメリカの違いです。
「世界の根本構造に挑戦状をたたきつける」ことを良しとする文化がある、とは、そういうことです。


そして、「世界の根本構造に挑戦状をたたきつける」系のビジネスは、ソフトウェアビジネスだけではありません。
バイオや金融工学*2も、世界像を根本的に書き換える文化を持った人々が圧倒的に有利です。


遺伝子工学、タンパク質工学、ゲノム創薬、幹細胞、臓器再生医療遺伝子組み換え作物、などの研究やビジネスでは、人々の価値観の根本に抵触せざるを得ないようなイノベーションが起きがちです。
これらが、飛躍的なブレークスルーを行うには、人々の根本的な世界像に、挑戦状をたたきつけざるを得ないようなことが発生しがちです。
そういうとき、アメリカでは古い世界像と新しい世界像が、「対話」によって現実的な妥協点を探り出すでしょう。
一方で、日本では「対話」ではなく、
「○○○はまずいだろ、常識的に考えて。(AA略)」
となり、「空気」の力で押しつぶされます。


たとえば、いま、日本の外では、遺伝子組み換え作物が、再び注目を集めています。
もちろん、盲目的かつヒステリックに遺伝子組み換え作物を排除しようとする反対派がいるのは、世界中どこでも同じです。
自分の持つ常識に凝り固まった、どうしょもない人々がいるのは、世界中どこでも同じなので、それ自体は問題ではありません。
日本とアメリカの違いは、「遺伝子組み換え作物の賛成派と反対派が「対話」をして、現実的な落としどころを探る」ということが行われるかどうか、というところです。まさに、メタ文化の強さの違いです。
日本では、何が、どういう原理によって、どこまで危険で、どれほどのメリットとデメリットがあるのか、それを冷静に話し合うようなことはほとんどありません。「自然なものの方が健康にいい」という、ヒステリックで盲目的な空気に染まっている人々の群れがいるばかりで、現実そのものを精密に見つめるような勢力は、台頭するどころか、「空気」に押しつぶされます。単に自然のものが健康にいいのなら、タバコやアヘンだって健康にいいはずなのですが。


日本が、戦後、奇跡的な経済成長をしたのは、「対話」のコストがなかったから、という要因も大きいと思います。
異なる民族・宗教にまたがる共通認識を、対話によって打ち立てるのは、高いコストがかかり、人々のコラボレーションの精度があまり上がりません。いちいち明快なロジックで対話しなくても、阿吽の呼吸で、繊細な対処がなされ、少しずつシステムが改善され、チューニングされ、ついには、「超効率的」とまで言われる、世界に冠たる日本の製造業を築き上げました。


そして、このような日本的システムは、「何を作るか(What)」が明確で、「どう作るか(How)」が主な問題なときは、凄まじい生産性をたたき出します。


しかし、「何を作るべきかが明確」で、「どう作るか(How)こそが問題だった」時代は過ぎ去りました。
作らなきゃならないことがはっきりしているモノやサービスは、あらかた作って、世界中を満たしてしまったからです。


こうして、日本のような「文化的同質性の高い国が有利な時代」が幕を閉じたのです。


「何を作るべきか、それこそが問題だ」という時代は、既存の権威や体制での地位に背を向けて、「世界の根本原理を書き換える」ことを奨励するような文化が圧倒的に有利です。


もし、日本がこれからの時代においても、繁栄をしたいのなら、とりあえず、日本は、異質な文化を積極的に受け入れるところからはじめるべきではないでしょうか。
たとえば、一定以上のレベルの高度頭脳労働者には、何人であろうと、積極的に日本国籍を与え、日本文化圏に取り込んでしまう、という作戦が考えられます。
異なる文化圏に属する高度頭脳労働者同士がコラボレーションするには、「空気」ではなく「対話」、「ロジック」、「取引」という「メタ文化」によって共通認識を作り上げなければなりません。
そして、文化の多様性を越えて、全ての人間に共通する、人間の根本的な欲望システムや認知システムに基づいたサービスを設計することになるでしょう。
そして、それは、自然と世界に通用するサービスの芽を内包することになるのです。


ちなみに、それでも、日本人は、ゲームソフトで世界を席巻したじゃないか、という話はあります。
しかし、ゲームというのは、世界に新しい価値を「付加」するものであって、世界の根本原理を「書き換える」ようなものではありません。それを受け入れるのに、いままでの仕事や生活のスタイルを、根本的に変えることを強要されないのです。


そこが、ゲームと実用系サービスの違いです。
実用系サービスで世界を席巻するには、人々のリアルな仕事や生活の一部を根本から書き換える必要があるのです。
グループウェアだの検索エンジンだのといった実用系・生活系・仕事系サービスを人々に受け入れてもらうということは、ライフスタイルや社会システムを書き換えているということでもあるのです。
だから、民族や文化を越えて世界に通用する実用系サービスを作るには、「対話」に基づく「メタ文化」が欠かせないのです。


結局、実用系コンピュータソフトウェア、バイオ、金融工学という、これからの時代のプロフィットセンターは、日本ではなく、アメリカになるでしょう。
これらの、時代の花形分野で自分の未来を切り開きたい若い人たちは、さっさと日本を出て、シリコンバレーにでも行った方がよいと思います。


また、日本の有能な若者たちが、大量に国外流出するような事態が起きれば、日本の官僚や政治家たちも、あわてて動かざるを得なくなるのではないでしょうか。

関連

●日本社会の腐敗した空気の分析はこちら
コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由


●そもそも空気ってなに?という話はこちら
「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し

*1:同じような状況に置かれても、ぜんぜん別の道をたどった文化も多いのですが。

*2:金融工学は、ようするにメタビジネスなわけですから。