本質の本質を理解せずに本質という言葉を使うのが流行してる

「本質」という言葉を、みんな気軽に使う。オイラも含めてね。
そういう自分に気がついて、自己嫌悪に陥った。

いまや、「本質」という言葉にかつての重みはない。
本質の大安売りだ。デフレだ。

「本質を理解した」、と人が感じるとき、人は対象を単純化してとらえている。
人は、整理し、単純化し、要点を取り出すことができていないと、「分かった」という感じはしない。

しかし、本質自体が複雑なものごとがある。
本質を損なうことなく、整理し、単純化することのできないものごとがある。

たとえば、個別具体的な人間だ。たとえば、個別具体的な社会だ。たとえば、個別具体的な生命だ。たとえば、個別具体的な愛だ。たとえば、個別具体的なソフトウェアシステムだ。たとえば、個別具体的な惑星だ。たとえば、個別具体的な組織だ。

そういうものごとの、「本質を理解した」と人が感じるとき、そこには「理解」の衣を着た「誤解」があるだけだ。
「本質的でない部分を削ぎ落とした」、と本人は思い込んでいるが、実際には、本質を構成する複雑な構造体の大部分を切り捨ててしまっている。それは本質でもなんでもない。

「これがこれの本質だ。」と人々に提示し、人々がそれに納得するとき、本質についての共通理解が得られたわけではない。単に、「利害」が一致しただけだ。共通理解ではなく、お互いに都合のよい共通誤解が得られただけだ。

対象物の本質自体が複雑であるとき、その対象物を扱う正しい態度とは、その本質自体の本質的複雑性と理解不可能性を認めた上で、特定の文脈に依存した特定の共通利害を確立することに満足するに留める、謙虚な態度ではないだろうか。