ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない

目次


●ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上で苦しむ人と喜ぶ人
●宇宙が熱平衡へ向かうように、人類社会は偉さの平衡(=平等)へと向かう
●ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上の3つの格差是正機能
この社会にエリートはいらない
なぜエリートがいなくても、社会が機能するのか?
●経済体制の革命では「偉さ格差」は是正できないということは、歴史が証明している
人類史上唯一Webだけが、共産革命という劇薬によってもなしえなかった根本的な「平等革命」を引き起こす
●会社は社員を馬車馬のように働かせるために、「偉さ格差」を利用する
●権力者は、人々の「生活基盤を人質」にすることで、人々を支配する
●Webが人質を解放することで、人類史的な進化が引き起こされる
Web革命によって斃される運命にあった梅田氏が、Web文明の旗振り役をやったという歴史の皮肉
梅田氏が「残念」と斬り捨てた日本のWebの生態系こそが、新時代の希望の灯火であることに、人々は無意識のうちに気がついていた
●「近代人の梅田望夫氏v.s新時代人のひろゆき氏」という構図
はてなブックマークは2ちゃんねる的だから「残念」なのではなく、2ちゃんねる的だからこそ、新時代を切り開く可能性を秘めている
●「エリートを敬う伝統」など、時代に取り残された老人の繰り言に過ぎない
●「権力解体装置としてのWeb」を描き出したRPM氏のカリカチュア
●Web自体に権力解体メカニズムが備わっているわけではない
自分の会社が作っている断頭台に、自分の首を切断された梅田望夫氏
●Web上の権力解体装置の主役は、はてなブックマークとは別のところにある
●権力解体機構を備えていないSNSやtwitterが劣っているわけではない
●「巨大な読者人口」という人質を取られ、地獄へとひた走る火車にのるアルファブロガーたち
●「ブログ+ソーシャルブックマーク」とSNSの特徴のまとめ
「偉さ」格差の是正(=平等化)が、社会全体の総幸福量を増やすメカニズム
新しい時代にふさわしい生き方とは?
●それでもなお、ネットの誹謗中傷揚げ足取りは正当化できるようなものではない
●この記事のBGM


ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上で苦しむ人と喜ぶ人


ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は、より平等な社会をもたらす社会的機能を持っている。
人類の歴史において、より平等になる方向に社会体制が進化してきたことを考えれば、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は人類社会を進化させ、新しい時代にふさわしい社会を築く礎となる可能性がある。


もちろん、炎上というのは得てして「正義のために誹謗中傷揚げ足取りリンチをするのではなく、リンチするために正義を探す人達」が集まってくることで起きるし、そういう輩は実に醜悪だ。
そんなものより道徳的に正しい手段によって、社会を変えていくべきだという意見もあるだろう。


だが、第一に、絶対王政下において市民の暴力による革命しか自由民主主義体制への道が開かれていないとき、
はたしてその暴力は「道徳的な悪」、以上終り、で思考停止し、安易に斬り捨てて良い可能性なのだろうか。


第二に、そもそも道徳という社会装置自体が、歴史的な権力闘争の産物でしかない。
男は男に都合の良い道徳を作り、強者は強者に都合の良い道徳を作った。
能力の高い人間ほど自由市場経済を肯定するような道徳観念を支持するのもその変奏だ。


もちろん、ニーチェが指摘したように、弱者も弱者に都合の良い道徳を作ることで、逆に強者を支配してきた。
神の前での平等を説く惑星規模で君臨する世界宗教も、
世界で最も豊かな国々を牛耳っている自由民主主義システムも、弱者が強者を支配する社会装置だ。


そもそも、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上を、嫉妬だの残念だのとことさら問題視し、過剰反応する人の多くは、ネットの既得権益層だ。
リアルで社会的地位が高く、ネットでも多くの人々の信用を勝ち得ている勝ち組実名ブロガーと、その支持者たちに多い。

彼らは、東京にビルを所有している富裕層が関東大震災を恐れるように、ネットの炎上による被害をリアルに恐れる。
勝ち組実名ブロガーには、失って困る信用がたっぷりあるからだ。
金持ちほど「汝盗むことなかれ」という道徳機能の恩恵にあずかれる。


一方で、ネット上の信用がたいしてない無名の人の場合、自分自身がネットの誹謗中傷・揚げ足取り・炎上の被害にさらされることはあまりないし、そもそも誹謗中傷や炎上で失われる信用など、もともとたいして持ち合わせていないので、ネガコメ問題など、所詮は他人事である。
多くの男性が痴漢被害のニュースを他人事のように聞き流すように、誹謗中傷問題を「ふーん」と聞き流す。
盗まれて困るようなものを持っていない貧乏人にとっては、泥棒はたいして怖い存在ではない。


それどころか、運動会の前日に学校が火事になることを祈る運動神経の鈍い子供のように、無名の人間の中には、ネット上の有名人のブログが炎上し、高みから転落していく姿を見て、暗い悦びを覚える者もいる。


宇宙が熱平衡へ向かうように、人類社会は偉さの平衡(=平等)へと向かう

歴史を振り返ると、人類がこれまで作りだしてきた社会システムは、紆余曲折しながらも、大まかな方向としては、平等を拡大・深化させる方向で進化してきたことが見て取れる。
古い部族社会から、神権政治、封建制、絶対君主制、全体主義、共産主義、自由民主主義。。。
この宇宙の歴史が熱力学の第二法則によって熱平衡へ向かって進むように運命付けられているのにも似て、人類の歴史は、個々人の「偉さ」の分布が平衡状態へと向かって進むように運命付けられているかのようでもある。


ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上の3つの格差是正機能

社会装置としてのネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上がもたらす平等化には、以下の3つの機能が見て取れる。

(A)ゼロリセット機能

「所得額に関係なく全ての人の所得税率が無差別に100%になると、全ての人の税引き後の所得が同一(ゼロ)になる」のと同じ原理で、全ての人が無差別に誹謗中傷揚げ足取りされたとしても、「偉さ」の格差は無くなる。
この原理により、ネットの誹謗中傷揚げ足取りが無差別に増大したとしても、全ての人の「偉さ」を無差別にゼロリセットし、「偉さ」の格差拡大を防ぐ効果がある。


(B)ストック剪定機能

無名の人間(=「偉さ資産(ストック)」の蓄積の少ない人間)よりも、社会的地位の高い人間(=「偉さ資産」を多く蓄積している人間)の方が、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上のターゲットとされやすい。これは、植木を剪定するようなもので、必要な「偉さ資産」を保有する人間(イチローとか)は叩かれにくいが、不必要に伸びすぎた偉さの芽(必要以上に偉そうにしている人間)を剪定するような効果がある。


(C)フロー剪定機能

ネットの誹謗中傷揚げ足取りは、自分の偉さ資産を増大させようとする瞬間を狙い打ちする傾向にある。
たとえば、経営者が経営者の偉さを正当化するようなことを記事に書くと炎上しやすい。「経営者など少しも偉くはない」と腰の低いスタンスで記事を書くと炎上しにくい。自分の偉さを不必要に増大させるようなことを書くと偉さのフロー収入が増大するので、誹謗中傷揚げ足取りをされ、炎上し、それ以上の偉さの増大が防止される。

この社会にエリートはいらない

ここで重要なのは、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上によって「偉さ格差」が大幅に減少したとしても、社会はそれほど大きな問題もなく機能してしまう可能性がある、という点だ。
つまり、この社会にエリートは必要ないのである。
エリートがいなくても、この社会は十分に維持・発展できるし、むしろ、エリートの存在は、人々の総幸福量を減少させる害悪かもしれないのだ。


池田信夫氏は社会の生産性は上位3%の質で決まると言い、
梅田望夫氏はWebは上位10%の人に活躍の場を与えると言い、
海部美知氏は知的エリートたちがネットのバーチャルなアテネの学堂に集って世の中を良くするための知の形成をすると言う。


しかしながら、世界をよりよくするため(to make the world a better place)には、「上位3%」も「上位10%」も「知的エリート」も必要が無いどころか、その存在自体が害悪かもしれないのだ。


なぜエリートがいなくても、社会が機能するのか?


ここで、
『じゃあ、「上位3%」も「上位10%」も「知的エリート」もなしに、誰が一体、社会を維持し、さまざまな問題を解決し、不便を解消し、より便利なもの、より楽しいものを、より少ない労力で生産・供給する仕組みを作るというのか?エリートなしに、それらの社会システムが維持・発展できるとでも言うのか?』
という疑問を持つ人もいるだろう。


この疑問に答えるために、「起業家」という社会装置を例にとってみる。


確かに、社会の問題を解決し、不便を解消し、より便利なもの、楽しいものを、より少ないコストで生産・供給する仕組みを作るには、起業家の存在が欠かせない。よりイノベーションを起こす力を持った人間にリソースを集中させ、新しいサービスを作り出すために、能力の高い人間ほどより多くの自己資本を蓄えられるという社会的な仕組みは必要だろう。人々の問題を解決し、生活を便利にするような新規サービスを開発するには、それがまだ機関投資家どころかエンジェルにすら相手にされない海の物とも山の物とも分からないうちから、失敗したときのリスクを負う覚悟で自己資本を投入して起業する人間が必要だ。サービスが立ち上がり、実際に収入が入り始めるまでの「つなぎ」の運転資金をあらかじめ蓄積していないと、新規サービスは立ち上がらない。社会がそういう人達を生み出すには、高い能力を持ったタフな人間が高収入を得て、まだ若いうちに起業のための自己資本を蓄えられるようにしておく必要がある。能力や成果に関係なく資本が全ての労働者に平等に分配されてしまったら、イノベーションを起こせる能力を持った人間が十分な自己資本を蓄えるのに時間がかかり、社会の問題の解決は遅れ、経済は停滞し、人々の生活は絶対的な意味で貧しくなっていくだろう。より仕事のできる人間により多くの資本が分配されるような社会システムになっているのは、社会が富を創出するためのインセンティブ設計の都合も大きいけど、社会装置としての資本機能の都合も大きいのだ。


しかし、それは単に社会を維持するための資源配分の都合でそうなっているという社会装置エンジニアリングの話にすぎず、そこからは、起業家を「エリート」としてあがめ奉る理由を導き出すことは出来ない。これは単に経済的資源配分の話であって、「偉さ」までを彼らに集中させる必要はない。
「所得や資本蓄積の格差」は人々の生活を支える「起業家」という社会装置を生み出すのに必要だが、「偉さの格差」は必ずしも必要ではないのである。
したがって、人々に価値あるサービスを提供する起業家が、ネットで偉そうなことを書くことを許す必要はない。
彼らを「エリート」として尊敬する必要など無いのである。
「私は少しも凄くありません。私は、たまたま運良く成功しただけです。私の成功はみなさんのおかげです。儲けたお金は無駄遣いせず、さらによいサービスを皆様に提供するために投資させていただきます。」
と、腰を低くして、自分の偉さを徹底的に無化する起業家だけをネットが受け入れ、それを行わない「エリート」を徹底的に誹謗中傷揚げ足取りをし叩きつぶすようにしても、腰の低い起業家、経営者、実務家たちによって、社会インフラを支えることは可能だ。


むしろ、「私はエリートだ」と公言するような鼻持ちならない人間を誹謗中傷揚げ足取りするすることで、彼らを「教育」することができる。
すなわち、社会の問題を解決し、社会を支えるサービスを作り出す人間は、「偉さ格差の最小化を徹底する」という、Web時代の道徳を身につけることを義務化することができる。
ネットの誹謗中傷揚げ足取りや炎上は、そのような機能を持った社会装置なのだ。


たしかに池田信夫氏の言うとおり、社会の生産性は上位3%で決まるかも知れないが、それはあくまで富を生み出すための、無色透明な社会装置の役割を担う3%の人間のことであって、偉さの序列によって人々を並べた場合に「上位」3%にくるエリートである必然性はないのである。
彼らは「偉い」エリートなのではなく、単に社会の生産性を左右するという価値中立な属性を備えているだけの人間でしかないのだ。


それから、ここではたまたま「起業家」という社会装置を例に見てみたが、これは「学者」、「研究者」、「政治家」、「官僚」、「ジャーナリスト」、「マスコミ」、「医者」、「弁護士」、「経営者」、「思想家」、「評論家」など、「偉さ」を過剰に保有しがちな他の社会装置についても、ほぼ同じことが言える。
社会の維持発展には、起業家だけでなく、学者も研究者も政治家も必要だが、必ずしも彼らが「偉い」必要はない。彼らが腰を低くして、自分自身の偉さを徹底的に無化するという「Web時代の道徳」を身につけていないのなら、ネットの住人は、よってたかって誹謗中傷揚げ足取りを行い、完膚無きまでにたたきつぶすことだろう。


経済体制の革命では「偉さ格差」は是正できないということは、歴史が証明している


経済体制をどう変更しても、「偉さ格差」の是正には繋がらない。
「偉さ格差」は、経済格差とは別次元の話だからだ。


かつて、資本家階級を打倒し、労働者のみによって究極に平等な政治体制を作ろうとした共産主義の国々は、ことごとく醜悪な権力ゲームの魔窟と化した。
そこでは、共産党幹部をバカにすることは許されなかった。
人々は、共産党幹部に敬意を払うことを強制された。
共産党幹部は「偉さ」を独占し、吐き気を催すようなおぞましい「偉さ格差」が社会にまん延した。
資本主義を廃止し、共産主義体制にしても、「偉さ格差」は少しも減らなかったのである。


共産革命という人類史的な社会実験から得られた貴重な教訓の一つは、
経済体制の変革によって「偉さ格差」を解消することは困難だということではないだろうか。


人類史上唯一Webだけが、共産革命という劇薬によってもなしえなかった根本的な「平等革命」を引き起こす

そして、Webというイノベーションは、人類が共産革命という凄まじい劇薬をもってしてもなしえなかった「偉さ格差」を克服するという、人類史的な大革命を可能にしたのではないだろうか。


人類の長い歴史の中で、唯一、Webだけがこの大偉業を成し遂げたのは、Webだけが唯一、人類誕生以来数百万年に渡って人々を抑圧し続けてきた、生活基盤が副作用として生み出す抑圧的な権力構造から人々を解放する社会装置だからだ。


会社は社員を馬車馬のように働かせるために、「偉さ格差」を利用する


人々は生活の糧を得るために、勉強し、仕事をし、生活の糧を得なければ生きていけない。
しかし、生活の糧を得るためには、人間は組織的に行動することを避けられない。
社会的な動物である人間は、組織的に行動したとき、桁違いのパワーと生産性を生み出すからだ。
人類をこの惑星の支配者の椅子に座らせた最大の力の一つが、この「組織力」なのだ。
そして、人間を効率的に組織化し、高い生産性を生み出すシステムは、権力者の隠された邪悪な欲望によって、醜悪な偉さ格差を生み出し、それを人々に強制する装置として、悪用されてしまうことを防ぎきれない。


おおよそ人間が作り上げる組織というものは、命令指揮系統があり、上下関係がある。
それなしには、組織の責任システムは機能せず、組織は十分に機能できない。
また、直接命令せず、部下の自由裁量でやらせるようなタイプのマネージメントスタイルであっても、部下の実態を把握し、部下の目的を明確にし、方針を与え、目標を設定し、それを評価する必要がある。


そして、原理的には、マネージメントする側の人間と、される側の人間に「偉さ」の序列を作る必然性などない。
ビジョンを作り、方針を打ち出す管理職は、単にそういう役割を持つ人間なのであって、管理職から方針を受け取り、その方針に従って行動する人間もまた、単にそういう役割を持つ人間であるというだけで、原理的には「どちらが偉い」ということにする必要もない。
大企業のマネージャーが高校野球部のマネージャー程度の「偉さ」であっても原理的には十分にシステムは成り立つはずだ。


ところが、現実には、部下を「くん」付けで呼び、自分の権威を誇示しようとする上司が後を絶たない。
また、企業の側も、この醜悪な「偉さ格差」を利用して、社員を競わせて社員を激しく働かせ、搾取する。
たとえば、銀行員の人達と酒を飲むと、やたらと人事のうわさ話が出てくる。
彼らは、同期のうちだれが早く出世するか、誰が出世が遅れるかにただならぬ興味を示す。
出世の遅れた人間は、先に出世した人間に嫉妬する。
同期の人間同士で、先に出世されて見下されまいとして、必死に成果を上げようと競い合う。
大手の銀行の人事管理とは、オヤジ同士を互いに嫉妬させて競い合わせるという、かなり悪趣味なシステムだ。


このように、組織の上下関係をそのまま「偉さの序列」に転化することは、企業が社員を馬車馬のように働かせるための手段になっているため、原理的には必ずしも必要とされない「偉さの序列」を、意図的に作り出す企業も多い。
それこそ、オヤジをオヤジに嫉妬させるため、滑稽なほどのビジュアルで「偉さ格差」を演出する。
たとえば、平社員は肘置きのない椅子に座らせ、昇進して課長になると、肘置き付きの椅子になる。
さらに出世すると、机の位置が窓際になり、机のサイズも大きくなる。
ほとんど子供じみた滑稽なほどの「偉さ格差」の演出で、今でも思い出すたびに笑いがこみ上げてくる。


権力者は、人々の「生活基盤を人質」にすることで、人々を支配する


また、これは職場に限った話だけではない。
たとえば、田舎などでは、それぞれの家に「格」のようなものがあり、その地域で顔役の人間がおり、目に見えない序列構造によって「偉さ格差」の構造が作り出されていることがよくある。


一方、ブログやソーシャルブックマークで形成されるネットコミュニティは、このような構造的な偉さ格差を根本から破壊するパワーを秘めている。


リアルにおいて、権力者が人々の上に君臨し、人々を抑圧し、「偉さ」を搾取し、独占することができるのは、
人々の生活基盤を人質にしているからだ。
上司の不興を買うと、査定や昇進に響くから、上司が偉そうに部下を君付けで呼んでも、人々は逆らえないのである。


その極端なケースとして、とくに外資系の会社などでときどき耳にすることだが、仕事の出来る上司の社内不倫率が高い会社があるようだ。
女子社員の中には、社内の権力者に股を開くことで、昇進や査定で依怙贔屓してもらおうとする者もいるとのことだ。
そこでは、まるでリアル猿山のような原始的な権力構造が形成されていたりするわけである。(チンパンジーなどは、同盟、分割支配、調停など、かなり高度な政治ゲームを繰り広げることが知られているが(根回しすらまともにできない不器用なタイプの人間より、よっぽど政治に長けているサルも多い)、彼らの政治闘争は、主に「偉さ序列、セックス利権、食べ物利権」の3つを巡る戦いのようにも見える。)

そして、だからこそ、組織のなかで権力を握ることは人々にとって悪魔的な魅力を持つようになり、会社はその悪魔的な果実を人々の鼻先にぶら下げて、馬車馬ように社員を働かせ、会社を維持することができる。
この手の会社で、適度の不倫をして上司に依怙贔屓をしてもらって楽しようとする女性は、出世競争へと社員を猛烈に駆り立てるエネルギーを供給する存在であり、会社にとっては都合の良い存在なのかも知れない。


ここ数千年の人類の社会システムの進化の到達点は、結局の所、類人猿たちが目を血走らせて覇を競うリアル猿山と大差ない権力構造なのかと思うと、複雑な気持ちになる。
進化どころか、類人猿にまで先祖返りしてしまっているってばよ!


Webが人質を解放することで、人類史的な進化が引き起こされる


Webの人間関係において最も革命的な点は、権力者は人々の生活基盤を人質にとっているわけではないという点だ。
はてなブックマーカーがアルファブロガーの小飼弾氏や梅田望夫氏を馬鹿にし、見下し、貶すようなコメントを付けても、査定や昇進にはなんの影響もないし、小飼氏や梅田氏に媚びを売ったところで、たいして美味しい目に会うわけでもない。
(実名ブロガーだけは例外で、他の「有用な」実名ブロガー(梅田望夫氏とか)に媚びを売ることで、リアルで対談に呼んでもらったり、仕事を回してもらったりするような美味しい目に会うことができるので、彼らは自らの実利のために巧妙な擁護記事を書くことがある。)


これは、ネットコミュニティが、人々のフラットな趣味の集まりだからそうなっている、ということではない。
たとえば、リアルでフラットな趣味のサークルを作り、そこに人々が集まったとき、そこでのリーダー格の人間を、好き放題コケにするようなことを言ったら、たいていはそのコミュニティからたたき出されてしまう。
アルファブロガーのような「偉い」人間を、「公衆の面前で」、「いつでも」、「気軽に」、思う存分こき下ろし、馬鹿にし、見下すことができるのは、唯一、Webという社会インフラによってのみ、可能となったのであり、これは、人類が今までに生み出した他のいかなる社会装置によっても、実現できなかった、とてつもなく革命的なことだ。
自宅の居間でテレビの政治家を貶したところで、それは単なる独り言に過ぎないのだ。


まさに、この特徴こそが、Webを人類社会の進化の歴史的な革命装置たらしめているのである。

Web革命によって斃される運命にあった梅田氏が、Web文明の旗振り役をやったという歴史の皮肉

そして、このWebがもたらした人類史的な革命によって、権威の座から引きずり下ろされ、無化される運命にあった梅田望夫氏が「Web進化論」を著し、Webの価値を称揚し、Web文化の旗振り役を勤めたのは、歴史の皮肉のようにも見える。


梅田望夫氏のインタビュー記事に対して、有村悠氏は以下のような鋭い指摘をしている

y_arim 岡田有花による「望夫おろし」。笑いが止まらん。っていうか慶應幼稚舎出身だろ?人生の最初から階層が違ったんだよ、ハイブロウが好きとかじゃなくて。むしろwebによって相対化され無化される側だったんだよお前は! 2009/06/02

(赤字による強調は引用者による)


要するに、「Web進化論」とは、そもそも「人類進化論」という、より大きな物語の一章、いや、一節として書かれるべきであった。
人類進化論をよく吟味し、咀嚼した上で、その文脈の中で一パートを分担する作者として、「Web進化論」を書くべきであった。
梅田氏は、人類進化論の全体文脈を十分に読まずにWeb進化論を書いたために、Webが持つ人類史的な意味を見落としてしまったのかも知れない。


梅田氏が「残念」と斬り捨てた日本のWebの生態系こそが、新時代の希望の灯火であることに、人々は無意識のうちに気がついていた

結局、よくも悪くも、梅田望夫氏の発想は、最初から最後まで一貫して、典型的な「近代人」のものだった。
彼は、良くも悪くも、古き良き時代の遺物なのであり、好きを貫くと言うよりも、近代思想を貫いている。
「上位数%のエリートが人々を導いて、世界をよりよいところにしていく」という発想は、結局の所プラトンの哲人政治のような古めかしい理性主義的な社会システム発想の焼き直しに過ぎない。


本来なら、育ちもよく、良い大学を出て、まっとうなビジネスをして、はてなという優良企業の取締役をしている、
品行方正を絵にしたような梅田氏のような人間がネットで叩かれる要素などない。
一方で、誹謗中傷揚げ足取りの巣窟の2チャンネルを運営し、違法行為すれすれのことをやりまくって、2ちゃんの下品なエロ広告で大金をかせぎ、裁判で訴えられまくっているアウトローなひろゆき氏のような人間は、ネットで叩かれる要素は満載だ。どこを叩いても埃が出まくる。


これだけ絶望的なハンデがありながら、梅田氏はネットで叩かれ、ひろゆき氏はむしろネットで
親しみと尊敬を集めているという、ありえない大逆転劇が起きている。
これほどの凄まじいハンデをひっくり返すほどの、社会的潮流、いや、ほとばしる濁流こそが、Web革命の核心ではないのか。


これは、原理的に「偉さ格差」を是正できない「近代」に人々が愛想を尽かし、「偉さ格差」を是正する原理的可能性を秘めたひろゆき的なものに、新しい時代の可能性を人々が本能的に見いだしたからではないのだろうか。


梅田氏が「残念」と斬り捨てた日本のWebの生態系こそが、新時代の希望の灯火であることに、人々は無意識のうちに気がついていたのではないだろうか。


「近代人の梅田望夫氏v.s新時代人のひろゆき氏」という構図

ちなみに、いかに梅田望夫氏が「近代」の価値観を体現した人物で、ひろゆき氏の生き方が現代的で洗練されているかについては、次の記事で詳しく書いた。
「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

しかし、その後の歴史において、この近代の理想的人間像に隠された欺瞞とインチキと弊害が、さまざまな哲学者や思想家たちによって徹底的に暴かれぬいた。
後に、ポストモダニズムと総括されることになる多様な思想の潮流群だ。
<<中略>>
こういうことが、すっかりバレちゃっている現代という時代において、いまさら、古めかしくかび臭い「近代の理想的人間像」などを持ち出しで「好きを貫く」などと言われても、少しもピンとこない。もちろん、これら、ポストモダンが突きつけた思想的課題を克服した上で、それでもなお、「好きを貫く」という思想を構築したというのなら、それはそれで一本スジの通った主張であり、傾聴に値する。そして、ぼくが梅田氏に期待したのは、そこの部分だった。ポストモダンは、近代の安易な理想を徹底的に破壊し尽くしたのはいいのだけど、壊すだけ壊しておいて、その後に、あるべき人間や社会の理想像を構築できたかというと、いかにも心許ない。その点において、少なくともニーチェは、キリスト教、民主主義、科学、哲学など、既存のメジャーな価値体系が隠蔽している欺瞞と汚物をえぐり出し、徹底的にその正当性を破壊し尽くした後、「では、人間が目指すべき理想像とはどのようであるべきか」という、その後の価値創造に腐心している。あんまり成功したとはいえないけど(笑)。これに対し、ポストモダンの思想家たちの多くは、近代の理想を、ぶっ壊すだけ壊しておいて、その後の価値創造において、見るべき成果がない。だから、現代社会における現実的な諸問題(たとえば、日本の教育システムはどうあるべきか)などの解決策を議論するとき、多くの場合ポストモダニズムはものの役に立たない。むしろ、ポストモダンが徹底的に批判し尽くし、欠陥商品であることがバレバレになったはずのヘーゲル思想の方が、人々の間にコンセンサスを作り出し、より多くの人を納得させるよりよい教育システムを構築するために、はるかに思考のベースとして役に立ってしまうほどだ。この意味で、一見、上から目線で近代をこき下ろし、すっかり近代を乗り越えたはずのポストモダンは、ボク的な感覚では、とてもじゃないが、きちんと近代を乗り越えたとは言えない。
だから、ボクは梅田氏に、本来、広がり伸びていく人間の自由な精神を、堅苦しい枠に閉じこめて殺してしまう、古めかしくかび臭い近代の呪いを破壊し尽くしたポストモダンを、さらに乗り越えて、その向こうに新たな理想の生き方を示してくれることを期待した。
しかし彼は、あの、すっかり欠陥商品であることがバレバレになってしまっている、古めかしい「近代」に、WebとかITとかいうペンキを塗り直して持ち出しただけだった。
<<中略>>
いかにも古めかしく暑苦しい近代的な梅田思想に比べ、肩の力の抜けたひろゆき氏が自然体で語りかける言葉の一つ一つは、はるかに現代的で洗練されており、次の時代を生きるためのヒントがあるように思う。

(赤字強調は、引用者による)


この記事でのキーワードは「近代の呪い」だ。「一部のエリートが、人々を導いて、世界をよりよいところにしていく」という構図自体もまた、「近代の呪い」に捕らわれた発想の一種ではないだろうか。


はてなブックマークは2ちゃんねる的だから「残念」なのではなく、2ちゃんねる的だからこそ、新時代を切り開く可能性を秘めている


ポストモダンの思想潮流群が哲学のレイヤで「近代」を解体し尽くし、人々の精神を解放したように、2ちゃんねる的なWeb文明の潮流は、ネット上の「近代的権威」を解体し尽くし、人々をリアルな権力構造から解放する。
はてなブックマークは2ちゃんねる的だから「残念」なのではなく、2ちゃんねる的だからこそ、新時代を切り開く可能性を秘めているのである。

ポストモダン潮流が解体したのは、単にエリートの権力だけでない。宗教的権威、哲学的権威、科学の権威、学問の権威、そして右翼も左翼も、弱者権力まで容赦なく解体しつくした。
少なくとも思想的なレベルでは、この地上に存在するありとあらゆる権力構造は、ポストモダンという多弾頭核ミサイルの豪雨によって、草の根一本残らないほどの焦土と化した。


もはや、「偉さ格差」を支える権力構造の根拠は、少なくとも思想的なレベルでは、ほとんど残っていない。
だから、小飼弾氏や海部美知氏がいくらエリートが世界を良くする云々と言ったところで、エリートをエリートたらしめる思想的根拠は破壊され尽くしてしまっているのだ。


「エリートを敬う伝統」など、時代に取り残された老人の繰り言に過ぎない


小飼弾氏は、日本にエリートを敬う伝統がないことを嘆いている。

なぜエリートを敬う伝統が生じなかったか。エリートとなりうる人々に、人々が無礼をもって答えてきたからではないのか。人々の無知蒙昧に、エリートは耐えねばならない。これはエリートとしての、義務である。しかし、エリートたりうる人々が、エリートにならねばならぬ義務もまた存在しないのである。エリートとなるのは義務ではなく、しかしいったんエリートとなれば義務ばかり追う。そんな損な役割の彼らの唯一の報酬は、敬意である。


しかし、小飼弾氏の言うような「敬意を払われるべきエリート」などというものを支える思想的基盤はもはや失われて久しく、小飼弾氏や海部美知氏の「エリートが世界をよりよいところに云々」という発想は、ひなたぼっこしながら「昔は良かった」と繰り返す、時代に取り残された老人の懐古趣味にすぎないのかも知れない。



「権力解体装置としてのWeb」を描き出したRPM氏のカリカチュア


そういう時代においては、ろくな書評も書かずに、
「この本はとにかくいい本だから読んでおけ。オレが勧めるんだから間違いない。とにかく読んでみろ。」
的な、自分の権威をかさにきた推奨記事を書いても、人々はそんな権威に敬意を払ったりしないから、
「いやー、偉い偉いアルファブロガー様が推奨しているかしらんが、それがどんな本なのかの書評もないのに、そんな権威だけを信じて、わざわざ金と時間を費やしてその本を読む気にはならないぜよ。本を薦めるのなら、まずは内容がちゃんと分かるようなしっかりした書評を書けよ。」
と人々が感じるのも、自然なことだろう。


アルファブロガーの梅田望夫氏と小飼弾氏が「日本語が亡びるとき」という本を、内容がさっぱり分からないろくに書評になってない記事で、とにかく買え、話はそれからだ、みたいな薦め方をして炎上した「日本語が亡びるとき」事件はこうして起きた。


その様子をid:RPM氏がカリカチュア風にまとめた「財布の中の1890円が亡びるとき」という記事を以下に引用する。

普段から英語の重要性を実感しているへんな会社の取締役が「ズキュウウウン」とキた本に出会った。
へんな会社の取締役「買いなさい。とにかくこの本を買いなさい。凄いから買いなさい。内容は読めばわかるから買いなさい。日本人なら買いなさい。無心で買いなさい。読書用、保存用、観賞用、布教用と4冊は買いなさい。アフィリエイト経由だとはてなにお金が入るからAmazonで買いなさい。亡びる前に買いなさい。」
取締役に魂を引かれた男「買います!先生が絶賛するんだから買います!内容なんか微塵もわからない書評でも買います!というか書評にすらなってない気がしますが買います!無心で買います!」
取締役に魂を引かれてない男「全然書評になってないんですが?具体的な内容が皆無なんですが?買いなさいしか書いてないんですが?というか本当に読ませる気あるんですか?」
dankogai「重要!重要!最重要!今世紀で最重要!!こいつを読むのはもはや義務ッ!読まない奴は納税してないも同じッ!!」
dankogaiに魂を引かれた男「買います!先生が絶賛するんだから買います!相変わらず内容なんか微塵もわからない書評ですが買います!熱い心だけは伝わってきますから買います!無心で買います!」
dankogaiに魂を引かれてない男「まともな書評になってないんですが?何をいいたいのか全然わからないんですが?勢いで義務とか噴き上がってるだけに見えるんですが?というか本当に読ませる気あるんですか?」
へんな会社の取締役「絶望した!本も読まずに批判する馬鹿に激しく絶望した!!馬鹿ばっかり!馬鹿多すぎ!!でもこれは取締役を離れた発言だからね!勘違いしないでよね!!あととりあえず買いなさい。」
取締役に魂を引かれてない男「自業自得ワロスwというか煽りすぎた書評の方の問題ですが何か?」


このカリカチュアは、結果的に、Webという権力解体装置が、どのように機能しているのかを描き出すことになっている。
Webという権力解体装置があってはじめて、「取締役に魂を引かれてない男」や「dankogaiに魂を引かれてない男」が、公衆の面前で、
「偉い偉いアルファブロガー様がなんぼのもんじゃい。オレの金と時間を費やして、本を買って読むのはオレであって、あんたじゃない。本を買う価値があるかどうかを判断するのはオレだ。オレにとって重要なのは、その本自体の客観的価値なんかじゃなく、「オレ」にとってそれが価値があると「オレ」が思うかどうかだ。あんたらは、オレがそれを判断するための参考となるデータだけ提供すりゃいいんだよ。」
と大衆に向かって放送し、真正面から権力を解体し、無化することができるようになったのだ。
数千年にわたる人類の平等化への道程をじっくり振り返ってみれば、この地上に、このようなとてつもない舞台装置が存在したことが、かつて一度としてなかったことが、しみじみと実感できる。
人類史上、いまだかつて、老若男女、地位身分に関係なく、世間の柵に捕らわれず、全く自由にこんなことのできた時代があったろうか?
これほど多様な人がことごとく権力から解放された時空間というのは、いったい、いつの時代のどの空間にあっただろうか?


Web自体に権力解体メカニズムが備わっているわけではない


ここで注意が必要なのは、Web自体がこのような権力解体メカニズムを持っているわけではない、ということだ。
たとえば、SNSのユーザは全世界で既に数億人にも達し、Web世界の重要な構成要素となっているが、SNSではこのような権力解体メカニズムは働きにくい。
SNSというメディアは、お互いにある程度の信頼関係があり、前提を共有する人間同士のつながりであることが多いので、リアルの人間関係に似た特性を備えている部分が多い。リアルの人間関係においてはそもそも話の合わない人間同士ははじめから付き合ったりしないように、SNSにおいてもはなっから話の通じない人間は、そもそも友人登録しないし、場合によってはアクセス禁止にしたりする。また、プロテクトモードのtwitterにおいても同じようなことが言える。
また、コメント欄が承認制になっているブログのコメント欄でも、やはり権力解体メカニズムは働きにくい。


権力解体メカニズムが働くのは、ブログとソーシャルブックマークだ。
もっと厳密な言い方をすると、全てのソーシャルブックマークが本質的に権力解体メカニズムを持っているわけではない。
権力解体メカニズムが働くかどうかは、個別具体的なソーシャルブックマークの個別具体的な仕様に依存する。
もし、SNS的に、記事作者が拒否したユーザのソーシャルブックマークコメントが、コメント一覧画面には表示されないようにすることができる機能(自分の画面だけに表示されないようにする機能ではなく、全てのユーザの画面において、そのユーザのコメントを非表示にする機能)が組み込まれていれば、それは実質的にSNSで特定ユーザをアクセス禁止にするのと同様に、信頼関係のないユーザはその記事にコメントを付けられないので権力解体メカニズムは働かない。*1


したがって、たとえばはてなブックマークのように、記事作者と信頼関係にない全くの第三者が、記事作者の意向を無視して、強制的にコメントを付け、しかもそれをインターネット全体に公開されたコメント一覧画面で、大勢の人に向かって「放送」できる仕様になっている場合だけ、権力解体メカニズムが機能する。


ちなみに、はてなブックマークの場合、記事作者はコメント一覧画面全体の表示・非表示を選択できるようになっているが、これは権力解体メカニズムを阻害しない。なぜなら、一部の酷いコメントをするユーザのコメントを非表示にしたいだけなのに、コメント一覧画面を非表示にすると、他の多くの有用なコメントが全て非表示になってしまうからだ。
すなわち、他のユーザのコメントを人質にして、抱き合わせ商法をすることで、一部の誹謗中傷揚げ足取りコメントを排除できないようになっているわけだ。
パンドラの箱を開けて「希望」を取り出したければ、希望と一緒にありとあらゆる邪悪な悪魔がその箱から飛び出すことに耐えなければならないような仕様になっている。


自分の会社が作っている断頭台に、自分の首を切断された梅田望夫氏


結局の所、梅田望夫氏の「偉さ」を解体し、無化したのは、
Webでもなければ、ブログでもなければ、ソーシャルブックマークですらない。
個別具体的なソーシャルブックマークサービスである、はてなブックマークに組み込まれた個別具体的な「権力解体仕様」が、株式会社はてなの取締役の梅田望夫氏の「偉さ」を解体し、無化したのである。


梅田氏は、やがて自分の首の上に刃を振り下ろす運命にある断頭台を作っている会社の取締役に嬉嬉として就任したわけである。


だから、彼の存在には二重の意味で歴史の皮肉がかかっている。
一つは、やがて彼の「偉さ」を解体・無化する断頭台の開発を可能とする人類史的な社会インフラであるWebの旗振り役を務めたこと。
もう一つは、そのWebというインフラの上で、自分の首を切断する断頭台を直接的に開発する会社の取締役に就任したことである。


Web上の権力解体装置の主役は、はてなブックマークとは別のところにある


もちろん、権力解体機構が組み込まれてるのは、はてなブックマークだけではない。
むしろ、はてなブックマークはマイナーなサービスだ。
実際の権力解体システムの主力は、匿名コメントを未承認で書き込めるブログのコメント欄、2ちゃんねる、そしてリンクやトラックバックでネットワークを形成して「祭」に参加するブログや個人ニュースサイト、あるいはWeb上のゴシップニュース媒体だろう。
最近では、半匿名でコメントを書き込め、完全匿名でコメントへの投票が可能なYahooニュースや、mixiニュースも、権力解体装置として機能している。
規模や世の中に与える影響度合いを考えれば、ブログネットワーク、Yahooニュース、mixiニュース、2ちゃんねるは、はてなブックマークをはるかに凌駕する権力解体装置として機能している側面もある。


権力解体機構を備えていないSNSやtwitterが劣っているわけではない


よく、はてなブックマークのコメントで「議論がかみ合ってない」という主旨のものが散見されることがあるが、そもそも人気エントリーに上がるような記事の間ではまともな議論は成立しにくい。「ブログ+ソーシャルブックマーク」は、議論の場ではなく「偉さ」や「正しさ」を巡る権力闘争の場になってしまいがちだからだ。
ブロガーBが『「ブロガーAが書いた記事」が間違っていること』を論証するような記事を公表して、それが人々に認められると、ブロガーAの「発言信憑性(≒偉さ)」が減少し、ブロガーBの「発言信憑性(≒偉さ)」が増加する。
あるいは、ブロガーDが「ブロガーCが道徳的に悪であること」を論証するような記事を公表して、それが人々に認められると、ブロガーCの「道徳的正しさ(≒偉さ)」が減少し、ブロガーDの「道徳的正しさ(≒偉さ)」が増加する。
このようにブロガー同士が、発言の真実性と道徳的優位性を奪い合うゲームをしている場合、まともな議論はまず期待できない。ブロガー達は、まともな議論をすることよりも、自分の「正しさ」を人々に認めさせ、自分の「偉さ」の減少を防ぎ、自分の「偉さ」を増加させることを優先するからだ。
田舎の土建業の利権争いをしている人達がまともな議論などしない理由と同じような構造だ。
一見まともな議論をするブロガーがいるように見えても、よくよくその記事の書き方を見ると、「まともな議論をするブロガーだ」という人々の評判を勝ち取って自分の「偉さ」を増やすために書いてあることがかいま見えて興ざめすることも多い。


このくだらない『「道徳的な正しさ」を勝ち取るゲーム』を有利に進め、人々の支持を勝ち取るのに効果的な方法がある。
それは、倫理学を勉強することだ。
倫理学というのは、複雑怪奇な「道徳的正しさの構造」を何千年にもわたって人類が徹底して分析し、議論を積み重ねてできた知の体系だ。
倫理学の知識体系には、倫理学の初歩すら分かってないナイーブなブロガーの記事から道徳的誤謬を拾い上げ、道徳的あら探しをし、道徳的に貶めるのに使えるツールが満載だ。
ごく初歩的な倫理学知識を応用するだけで、倫理学童貞のネットの住人はいたく感心するから、攻撃対象のブロガーの道徳的正しさを減らし、あなたの道徳的正しさを増やすことができるし、実際にそのようにして書かれた記事は、はてなのホッテントリでよく見かける。
多くの人は倫理学童貞なので、薄っぺらい倫理学の入門書の最初の方のページに書いてある何百年も前に議論の大部分が終わっているような理屈の劣化版のような記事ですら、まるではじめてエロ本を見て大興奮する中学生のように、その道徳的正しさに感激するコメントがびっしりついたりする。


自分があるテーマについて、まともな議論を重ねて、その問題を深く掘り下げたいとき、議論の場としてブログやソーシャルブックマークを選ぶのが、あまり賢い選択になりえないのは、こういった状況があるからだ。
「公開ブログでまともな議論をして、大衆が正しい判決を下す」などという状況も、起きることはないではないが、それが起きることはむしろまれだと考えた方がいいだろう。なぜなら、大多数の人は十分な倫理学のトレーニングを受けておらず、ブロガーの稚拙なレトリックすらみぬけず、流されてしまうし、そのうえ、まっとうなロジックより、自分にとって心地よく聞こえるロジックを肯定するという誘惑に抗えないし、抗う必要もメリットもない。


それに比較すると、このような不毛な駆け引きに捕らわれることがないSNSでは、「ブログ+ソーシャルブックマーク」よりも、はるかに深く精緻な議論ができる。
公開Webの場合、道徳的な予防線をはりまくったまどろっこしい書き方をしないと、相手の「悪」を見つけて、自分の道徳的正しさを公衆の面前で証明し、人々の支持を勝ち取りたくてうずうずしている道徳ウォーリアーたちにつけいる余地を与えてしまう。
センシティブな話題の場合、いちいちそんなまどろっこしい記事の書き方をしていたら、まず議論にはならない。議論のための本筋のロジックより、「誤解を招かないようにするため」の文章の方がはるかに分量が多くなってしまうからだ。
しかし、SNSで議論する場合、そもそも、獲物の「悪」を見つけ出して、自分の道徳的「正しさ」や「偉さ」を証明するために論争をしかけるような人は、もとより友人登録しないし、間違って紛れ込んできたとしても、アクセス禁止にすればいい。


そういう「偉さ」や「正しさ」を巡る不毛な権力闘争を排除してはじめて、まともな議論が可能となるのであり、そのための装置としては、SNSは「ブログ+ソーシャルブックマーク」をはるかに凌駕する。


要するに、「ブログ+ソーシャルブックマーク」という権力破壊装置は、
権力だけでなく、「まともな議論」まで破壊してしまうという副作用があるのだ。


「巨大な読者人口」という人質を取られ、地獄へとひた走る火車にのるアルファブロガーたち


それではなぜ、まともな議論も成立せず、権力も解体されてしまう「ブログ+ソーシャルブックマーク」の世界で、ブロガー達はブログを書くのだろうか?
その最大の理由は、スケールメリットからくる影響力の大きさである。
梅田氏が、mixiで友人限定で記事を書いていれば、誹謗中傷揚げ足取り炎上が起こって、「偉さ」を破壊され、無化されることもなかっただろう。
それどころか、不毛な正義権力争いに巻き込まれず、内容の充実した、まっとうな議論もでき、精神の成長の糧とすることができたろう。
しかしながら、いくら多くの友人をmixiで登録すると言ってもたかが知れている。せいぜい数万人がいいところだろうし、それだけむちゃくちゃ大量の友人登録をしたところで、検索エンジンから人々は来てくれない。
インターネット全体に公開するブログと比べると、書いた文章を読んでくれるユーザ数の、文字通りの意味で桁が違う。
SNSの中に記事を書くのは、投資効果が悪すぎるのだ。


すなわち、権力は解体されてしまうわ、まともな議論は成立しないわで、ふんだりけったりの「ブログ+ソーシャルブックマーク」というメディアだが、「圧倒的に巨大な読者人口」を人質にとられているため、誹謗中傷揚げ足取り炎上泥仕合を覚悟で、SNSではなくブログで記事を書かざるを得ない状態なのだ。


だから、彼らはそれが地獄へとひた走る火車だと知っていてもなお、それに乗らざるを得ないのだ。


「ブログ+ソーシャルブックマーク」とSNSの特徴のまとめ


上述した「権力解体メカニズム」、「まともな議論」、「読者数」についての「ブログ+ソーシャルブックマーク」とSNSの特徴をまとめると、以下のようになる。


ブログ+ソーシャルブックマーク

SNS

権力解体機能


×

まともな議論

×


読者数




「偉さ」格差の是正(=平等化)が、社会全体の総幸福量を増やすメカニズム

ネットの誹謗中傷揚げ足取りで「偉い」人達を引きずり下ろし、無化することで「偉さ」の格差が減り、社会はより平等化するかもしれない。
そして、人類社会の進化の方向性は、平等化を深める方向へ向かっているから、これは正常な社会進化なのかもしれない。


しかしながら、「偉さ」格差の是正は、はたして人々を幸福にするのだろうか?
もっと言うと、社会全体の総幸福量を増やすのだろうか?


ここで重要なのは、「偉さ」はあくまで相対的なものであって、
絶対的な「偉さ」というものは存在しないということだ。


だから、他人の「偉さ」が減った分だけ、自分の「偉さ」が上昇する。
したがって、誹謗中傷揚げ足取り炎上によって、偉い人達の権威が失墜するとき、
自分の「偉さ」がそれだけ増大することになり、自分の幸福量は増える。


自分の年収が同じままでも、自分より年収の多い人が全て財産を没収されたとすると、
自分は世界で一番年収の高い人間ということになり、かなり気分がよくなる。
自分の幸福度は上昇する。


努力しても決して幸せになれない理由という記事で紹介されていたグリーンスパン氏の本からの引用の孫引きになるが、以下のような調査がある。

ハーバードの大学院生に、自分の年収が5万ドルで、同僚の年収がその半分の場合と、自分の年収が10万ドルで、同僚の年収がその倍の場合、どちらが幸せかと聞いたところ、大多数が前者を選んだという。

ハーバードの大学院生という、勝ち組集団ですら、自分の幸福量は他人との相対関係によって決まると答えているわけだ。


こうして考えると、誹謗中傷揚げ足取りによって偉さ格差が是正したとしても、
それはあくまでゼロサムゲームであって、社会全体の総幸福量は増えも減りもしていないように思える。


しかしながら、話はそう簡単ではない。
人間の幸福の感覚は、プロスペクト理論のグラフのような構造をしている可能性があるからだ。
たとえば、「自分の年収が50万円増える嬉しさ」と、
「自分の年収が50万円減る悔しさ」の絶対値を比較すると、
「自分の年収が50万円減る悔しさ」の方がずっと大きい、
というようなことが知られているからだ。
50万円の価値は、それを得た時と失ったときで、大きく異なるのだ。

山崎元氏のプロスペクト理論の解説記事より引用
(この図は、1000円で買った株が50円値上がりすることで得られる幸福量より、50円値下がりすることで失われる幸福量の方が大きいことを表している。)


これと同様に、
「自分が同僚たちよりも20%優れていると感じるときの幸福量」と、
「自分が同僚たちよりも20%劣っていると感じるときの不幸量」
の絶対値を比較したとき、後者の方がずっと大きい可能性もある。


個人的な経験を一般化することはできないが、たとえば、私は幼い頃、ペーパーテストは得意だったし、絵画コンクールや水泳大会や作文コンクールでも特別の賞をもらうことが多く、1回の朝礼で、校長先生から私の名前が何度も呼ばれ、1人でいくつもの賞状を抱えるというようなシュールな状態がよくあったが、その賞の数に比例した幸福量を感じていたかというと、まったくそんなことはなかった。そういうことが続くと、感覚が麻痺してしまって、それほど特別に嬉しいものではなくなってしまうのだ。
しかし、あるとき賞状を授与された人達の中に、たまたま私が入っていないことがあって、別に私はそれをなんとも思っていなかったのに、とくに交流があったわけでもない女の子に、「ぜったい自分の名前が呼ばれると思ってたくせに!」というのと、あとザマーミロ的なことを、嫉妬むき出しで言われてびっくりしたことがある。それだけでなく、まったく予想もしない人から、強烈な嫉妬を告白されてびっくりするようなことが、何度かあった。そのたびに、「賞状ぐらい、欲しければいくらでもあげるよ。」と、後から思い返したりした。言われた瞬間は、あまりにも予想外で、不意を打たれた形になり、とっさにその言葉は出てこなかったのだけど。*2
このことから幼い私が実感したことは、「賞状をたくさんもらえ、みんなの前で褒め称えられ続ける」ということは、たいして嬉しいことではないのに、「賞状をもらったことがなく、みんなの前で褒められたこともない」ということは、かなり不快な状態らしいということだ。


フランシスフクヤマは、人間には「対等願望(他人と同じだけ優れた存在になりたい)」と「優越願望(他人よりも優れた存在になりたい)」があり、それが歴史を前進させる要因の一つだ、みたいなことを論じていたけど、これは少し表現が実態とずれている感じがする。
もっと実態に即した表現をするなら、「劣等回避願望(他人より劣った存在でいたくない)」と「優越願望(他人より優れた存在になりたい)」なんじゃないだろうか。同等になりたいのではなく、劣りたくないのだ。
そして、ぼくの個人的な経験からすると、プロスペクト理論のValue Functionのグラフのように、優越願望が満たされることによる幸福量より、劣等回避願望が満たされないことの不幸量の方が、絶対値が大きい可能性があるのではないかとも思ったりする。


もし、仮にそうだとすると、ネットの誹謗中傷揚げ足取りによって、ネットの偉さ格差が是正され、平等化が推し進められると、社会全体の総幸福量は増大することになる。
そして、平等化に向かって進んできた人類の社会システムの進化の歴史は、同時に社会全体の総幸福量を増大させる方向での進化の歴史だったことになる。


新しい時代にふさわしい生き方とは?


ここまで見てきたようなことを踏まえると、新しい時代にふさわしい生き方というものが見えてくるような気がする。
「ポストモダンとWeb」という二つの強力な権力解体装置が、新しい社会構造形成の基盤となっている時代においては、自分の「偉さ」を失うまいともがけばもがくほど、泥沼にはまる。
だから、「偉さ」への執着を捨て、淡々と自分の役割を果たしていくことが、Web時代に求められる生き方なのではないだろうか。
Web時代の起業家は、少しも偉くない単なる一般人として、淡々と自己資本を蓄積し、淡々とビジョンを作り、淡々と新規サービスを立ち上げ、淡々と人々を雇い、少しも偉ぶらず、淡々と会社を経営し、淡々と人々の生活基盤を豊かにし、淡々と会社を売却して、その資本で淡々と次のサービス開発を行う。少しも偉くない、単なる一般人として。単に、起業家という社会的な役割を与えられただけの他の誰とも変わらない一個の人間として。
Web時代の学者は、少しも偉くない単なる一般人として、淡々と知識を蓄積し、淡々と研究を練り上げ、淡々と学会に発表し、淡々と一般向け書籍を書いて社会に知識を還元し、淡々と研究生活を続ける。少しも偉ぶらずに。
医者も、弁護士も、政治家も、資本家も、すべて、少しも偉くない、単なる一般人として、究極のフラット化が実現した社会の中で、淡々と一個の生を全うするのだ。
そこには、人々の頭上を覆う抑圧的な権力装置はない。頭上にはただ、青空が広がっているだけだ。


そして、このフラット化の流れに逆らい、ネット上で自分の偉さ(頭の良さ、美しさ、道徳的正しさ、経済力、etc.)を誇示しようという無意識の下心を持つ人間のブログは、それが学者だろうが、コンサルだろうが、市場原理主義者だろうが、ウヨクだろうが、サヨクだろうが、フェミニストであろうが、科学者だろうが関係なく、まるで体内に侵入した異物に白血球が寄り集まって攻撃し始めるように、ネットの住人たちがよってたかって誹謗中傷揚げ足取りを行い、炎上することになるのではないだろうか。


それでもなお、ネットの誹謗中傷揚げ足取りは正当化できるようなものではない

こうしてみると、Webの誹謗中傷揚げ足取りは、「残念」どころか、人類史的な意味を持つ社会装置として機能しているようにも見える。
しかし、だからといって、誹謗中傷揚げ足取りが美しい行為だとも思わないし、それを正当化する気にはとうていなれない。醜悪な動機で行われた醜悪な行為を詭弁で正当化するほどおぞましいことはない。それが結果として社会的に役に立っているという側面があったとしても、誹謗中傷揚げ足取りをやるような人間は下劣な人間であり、その精神は腐臭を放っており、そういう人間と交遊を深めたいとは、というてい思えない。
ただ、たいていの物事には良い側面と悪い側面の両方があり、Webの誹謗中傷揚げ足取りのようなおぞましい行為すらもその例外ではない、ということは忘れてはいけないと思うのだ。


この記事のBGM

この記事を書きながら、ずっとボクの頭の中で流れていたのは、ジョン・レノンのイマジンという曲だ。
さまざまな権力装置が解体へと向かい、頭上にはただ青空が広がる、そういう時代のイメージソングだ。

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界は1つになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっと1つになるんだ


今、我々にもっとも必要なことは、あらゆる権力が解体された、究極にフラット化された時代を生きる覚悟なのかもしれない。

The web is flat.

*1:これは、はてなダイアリーに限らず、これはすべてのブログで可能だ。たとえば、登録用のコード文字列をはてなに発行してもらい、それを自分のブログのトップページに一時的に表示させるだけで、自分がそのブログのオーナーであることを証明できるので、認証は簡単だ。

*2:ちなみに、私は絵の描き方を知らない。絵の技術は全くない。子供の頃、全校の代表に私の絵が選ばれたのは、絵の技術が云々という話ではなかったんだと思う。そのとき特別賞を受賞した絵を大人になってから見返したことがあったけど、絵の技術なんかまったくなくて、輪郭もバランスもぐちゃぐちゃだけど、ほとばしる生命力というか躍動感というか、一種独特の異様な何かが画用紙一杯にぶちまけられていて、その絵を当時の大人達が選んだ理由がなんとなく分かる気もした。