意外と知られてない、自分を飛躍的に成長させる読書テクニック


間違った方法でいくらハードトレーニングをしても、スポーツ選手としての成長はないように、
間違った方法で何千冊読書しても、思考も見識も洞察もたいして深まらない。
最小の努力で最大の筋力を得られる筋力トレーニングがあるのと同じように、
最小の努力で最大の見識を得られる読書スタイルというものがある。


実際、たくさん本を読んでいるのに空回りばかりしている人はよくいるし、
ほんの数冊の本を読んだだけで、驚くべき成長をする人もいる。
その違いは、具体的にはどこにあるのだろうか?



よく「文章の論理構造の理解が一番大切だ」と言う人がいるが、文章の種類によっては、この固定観念が癌になる。
論理構造の理解は確かに必要なのだが、それを優先して文章を読解しようとすると空回りして不毛な誤読をして、結局、一番肝心な部分が分からないままになってしまうことが多い。


最優先でやるべきは、作者や登場人物の情動回路を自分の脳内で動かすことだと思う。
作者や登場人物になりきって作者や登場人物の目から見える世界を思い浮かべ、
作者や登場人物が感じた息苦しさ、悔しさ、理不尽さ、憤りを自分も味わってみることだ。


それも、作者や登場人物の背の高さ、体の重さ、姿勢の歪みからくるにぶい苦痛、自分の筋肉や骨や間接や胃や腸やさまざまな内臓が蠢いたり痛んだりする生々しい感覚、汗で服が皮膚に貼り付く不快感、まさぐられ、押さえつけられる苦痛、抵抗できない悔しさ、視界から見えたり触っているさまざまなもののディテールを、リアルに生々しく、自分がいままさに体験しているかのように、作者や登場人物の中に「入り込み」そこでわき起こる様々な感情を自分の感情として味わうことだ。


ここで重要なのは、文章に出てきた全ての登場人物や作者の情動を、並列に、あるいは、切り換えながら自分の脳内で血が出るほど誠実にシミュレートすることだ。自分の好きな登場人物や作者の情動の、感情移入しやすい部分だけシミュレートするのは、ただの精神的自慰行為にすぎない。自分がむかついたり反発を感じる作者や登場人物の身体、立場、気持ちになりきって、そこから見える世界を味あわなければならない。


このような情動シミュレーションさえしっかりできれば、文章の論理構造など、さして努力しなくても自然に浮かび上がってくる。
それも、単に論理骨格を追いかけるより、はるかに精密に論理構造が見えるようになる。


たとえば、税務申告や税務調査対策の本を読むときも、著者、税理士、税務官、税務署長、法律や税制を作った官僚、政治家の情動シミュレーションをしながら読めばぐっと読みやすくなる。税制というものが作られた背後には人間の情動が蠢いているし、税制を運営する税務署や税理士にも情動の蠢きや人間ドラマはあるのだ。哲学書を読むときだって、その哲学書を書いた哲学者の情動シミュレーションをやりながらの方が、はるかに直感的にロジックを理解できる。哲学者とは、自分の情動に突き動かされて、極めて個人的な感情で論理を突き詰めた結果、哲学を打ち立てた人達だからだ。
経済学の教科書ですら、比較優位や限界生産性の解説の例題で登場する人物の情動シミュレーションをやりながらだと、すっと頭に入ってくるし、理解も深くなる。それどころか、経済理論の限界も肌で感じられる。経済現象というのは、そもそも人間の情動が作り出しているのだから。



そもそも、文章の論理構造の把握に、情動シミュレーションが重要であることの、
根本的な理由はなんだろうか?


それは、一切の意味と価値が、究極的には論理ではなく、情動から生じているから、という理由だ。
情動を一切無視した論理というのは、文字通り無意味な論理だからだ。


「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し


人間が生きる理由、人間が働く理由、いや、人間の利害と感情に関わる一切の行為の理由は、論理的な正しさなどからは生じない。一切は、利害と感情の構造から生じているのである。


そして、情動シミュレーションの能力とは、空気を読む能力とほとんど同じものだ。
「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し


まずそもそも「空気を読む」とはどういう行為なのか?
それは、人々の複雑に絡み合った「利害と感情の構造」を読むということだ。
<略>
そして、人間の本質とは、「論理の機械」ではなく、「利害と感情の機械」だと思う。もしすべての人間が、一切の損得を気にかけなくなり、一切の感情をなくしたら、人間のあらゆる行動の理由がなくなる。仕事をする理由も、恋愛をする理由も、人を殺してはいけない理由も、生きる理由すらなくなる。人間世界とは、複雑に絡み合った利害と感情の網の目で形作られたものなのじゃないかと思う。
そこにそのビルが存在し、そういう形になっているのは、それによって得する人間と損する人間とむかつく人間と喜ぶ人間がいるからだ。
あまり高いビルを建てると、景色が悪くなって気分が悪いという人、できるだけ高いビルを建てた方が、儲かるという人、この場所に住みたいという欲求を持つ家族たち、ここに人が引っ越してくれると、客が増えると考えるスーパー、都市計画上、ここにビルがあると都合の良いお役所の人たち。
そういう複雑な利害と感情が織り込まれた結果、それがそうして存在する。都市において人間が目にするほとんどすべての景色は、そうやって形成されたものだ。決して、そこにビルを建てるのが、「論理的に正しい」からではないのだ。人間は、青ざめた正しい論理でできているのではなく、赤く燃え立つダイナミックな喜怒哀楽と損得でできている。


だから、
空気の読めない人の読書は、空虚で不毛になりがちだ。
本を読むときこそ、その本の中に漂う空気を読まなきゃならない。
本の中の空気を読まなければ、ほんとうにその本を読んだことにはならない。
そんな本の読み方をしているかぎり、何千冊の本を読んでも知識と情報ばかりが脳内に増えていくだけで、思考、見識、洞察は深まらない。自分は変化しない。


また、他人の情動シミュレーションを自分の脳内で行うのは、自我を守ろうとする力と逆の力が働くことも多いため、しばしば自分を破壊し、出血させる。他人の情動シミュレーションは、それに慣れていない人にとっては、しばしば不快で苦痛だ。だから、無意識のうちにこれを避けてしまう人が多いのも不思議ではない。


しかし、自分を破壊することを恐れている限り、大きな成長も見込めなくなる。
ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される

それから、小飼弾氏の本の読み方は、単に本を精読・咀嚼しない、というだけでなく、自分を破壊しない、出血しない読み方なのではないかと想像します。だから、小飼氏は、いくら本を読んでも、小飼氏のままなのではないでしょうか。ひたすら知識が増え、視野が広がるだけの読み方です。ひたすら、土台の構造はそのまま直線的に進歩発展していくだけの読み方です。本の内容が自分の内臓に突き刺さり、大出血を起こしながら、死闘を行うような読み方をしないのです。土台からぶっ壊され、建物の根本構造が変形してしまうような読み方をしないのです。だから、多くの場合、本は、小飼氏の精神世界をすっと通り過ぎ、いくつかのインスピレーションをもたらすだけのものに過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。


そもそも、他人の異質な情動を自分の情動の中に食い込ませるから異種混交が起きて自分の精神が豊饒になって成長していくのであって、過去の自分の情動の自動再生ばかりやっていては、自分の精神は単線化し、貧しいままになってしまう。遺伝子プールの多様性が重要なように、自分の脳内のミームプールの多様性が重要だが、情動シミュレーションをおろそかにしたまま大量の本を読むと、情動という肉を伴わないミームの骨格部分(≒単なる知識や情報)だけが頭の中でガチャガチャ骸骨ダンスを踊っているような状態になる。


また、情動シミュレーションをしながら本を読むということは、決して作者の情動に押し流されて洗脳されてしまうことを意味しない。むしろ、情動シミュレーションによってより精密に作者の情動を捕まえるからこそ、その情動に逆らって思考することができる。
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ほんとうに「思考する」というのは、「過去の自分の思考」や「他人の思考」に「逆らって」思考する、すなわち、新しい脳神経回路に通電し、新しい脳神経パターンを開墾することであって、単にすでに踏み固めた道をなぞることではない。単に他人の発言をリピートするのが発言でなく、過去に自分が何度も発言していることを繰り返すのが発言でもないことと同じだ。
相手の身体を押し返すには、相手の重心をしっかり捕まえなければならない。
相手の情動が分からないと、自分が相手と同じ思考をしているのか、相手と関係ない思考をしているのか、相手と反対の思考をしているのか、そもそもそれが分からないから、無意識のうちに同じような思考をリピートして堂々巡りをしてしまい、「新しい脳神経パターンを開墾する」ことができなくなってしまう。
情動シミュレーションによって、相手の情動までしっかりと把握するからこそ、相手の情動に逆らって思考する、すなわち、「ちゃんと思考する」ことができるようになるのだ。


そして、お察しの通り、情動シミュレーションは単に読書だけでなく、仕事、生活、遊びのさまざまな局面で決定的に重要になる。
情動シミュレーションをしながら作り上げた企画と、そうでない企画には、そのクオリティに雲泥の差が出てくることが多い。
営業でも、交渉でも、情動シミュレーションが得意な人間は、優秀な成績をたたき出すし、出世も速い。
リアルでビビッドな情動シミュレーションができれば、セックスもオナニーもクオリティーがぐっと上がる。


あと、情動シミュレーションは一見コストがかかるように見えるが、実際にはそうでもない。
文章を読むとき、情動シミュレーションをやるクセをつけると、やがて条件反射的に情動シミュレーションが自動起動されるようになり、普通に文章を読むのと、さほどコストは変わらない。むしろ、小説やマンガを読むときは、ものすごく中に入り込み、ガラスの冷たく固い質感が生々しく感じられ、リアルにガラスの割れる音が聞こえ、手にガラスの破片が刺さる痛みが走り、ずきんずきんという痛みと共に血がボタボタとしたたり落ち、助けがやってきたときの安堵感でへたり込み、安堵の涙が出てくるようになり、楽しみも深くなる。とくに読む速度が遅くなっている感じはしない。
情動シミュレーションは、やればやるほど、回路が強化され、スピードが上がり、イメージが鮮明になっていく。ときどき、現実に自分が体験した記憶だったか、本を読んだときに情動シミュレーションで自分が疑似体験した記憶だったか、混乱してしまうことすらある。脳の別の部分を並行動作させているような感じで、おそらくは脳全体の活動量は増えているのだろうが、単位時間当たりの精神成長量はあきらかに上昇する。


それと、読書は、必ずしも成長するためにするわけじゃない。単に楽しみのために、興味の赴くままにいろんな本を読むのが普通だろう。ただ、そういう場合でも、読みながら無意識のうちに並行して情動シミュレーションをしてしまうクセをつけておくと、より深く豊かに味わえるようになる。読書という楽しみの時間そのもののクオリティーが上がる。それに加えて、意図しない副作用として、自分の精神の成長にもつながるのだから、それにこしたことはないのではないだろうか。


情動シミュレーションを意識的にやりながら、読書、仕事、生活、遊びをやり続けながら十年もたつと、情動シミュレーションをおろそかにしながら同じ十年を過ごした人間との、力量の差は、決定的になる。
時として、生まれ持った素質の違いすらもはるかに凌駕するほどの逆転も可能だ。


情動シミュレーションというのは、これほどシンプルにもかかわらず、長い年月のうちに、人間を根本から作りかえるほど凄まじいパワーを秘めた、究極のライフハックなのだ。