子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明


子供に「どうして勉強しなきゃいけないの?」ときかれたら、何と答えるか?

■「幸せになるためです。」←幸せと勉強に何の関係があるのか、いまいちピンとこない。
■「出世して高収入を得るためです。」←つまらない勉強をしてまで、出世や高収入が欲しいと思わない。
■「立派な社会人になるためです。」←勉強できなくても、立派な人は立派でしょ。つまらない勉強をしてまで立派になりたいとも思わないし。
■「社会に貢献するためです。」←勉強しなくても貢献できるよ。つまらない勉強をしてまで貢献とかしたいと思わないし。
■「なんでそんなことを思ったの?」と聞き返す←勉強がつまらないし、嫌いだからに決まってるじゃない。なぜこんなつまらないことをしなければならないのか、納得のいく理由を知りたいんだってば。誤魔化さずに、ちゃんと答えてよ。

という回答に納得感のなかった1年半前のfromdusktildawnが、こんな回答をしていました。*1

http://q.hatena.ne.jp/1124539258#a385480

勉強はしなくてもいい。勉強が嫌いな人は、我慢して勉強する必要はない。勉強したい人だけ勉強すればいい。ただ、勉強するとどんな楽しいことがあるのかだけは、知っておくべきだし、教えておくべきだ。

あと、勉強ができる人には、我慢して勉強したから勉強ができるのではなく、単に勉強自体が楽しいから勉強しているだけの人も多いので、べつにエライとかじゃないし、尊敬されるようなことじゃない。テレビゲームが好きでテレビゲームをやってるのとたいして変わらんのじゃないかと思う。

で、ぼくが日々実感している、「勉強することによる具体的で直接的で切実なメリット」は次の4つ。

(1)もっと楽しく遊べる

(2)もっと楽しく仕事ができる

(3)もっとすばらしい友達をたくさんつれる

(4)騙されてひどい目に合いにくくなる

まず、(1)の遊び。基礎的な筋力や体力があると、幅広いスポーツをがんがん楽しめるように、基礎的な学力があると、さまざまな知的な遊びにがんがん挑戦できる。たとえば、英語ができれば、無菌パックされた加工食品みたいなパック旅行なんかじゃなく、リュックサック一つで世界中の安宿を、現地の人々に混じって放浪する、とれたて生野菜丸かじりのような旅行が楽しめる。現地人の生活空間に入り込めるから、まったくの異空間、異質な空気、別世界に入り込んじゃうかんじで、濃密な異文化リアリティが、ちょー面白いぜェ。語学力が十分にあれば、人生論や価値観みたいな、自分の生き方を考え直しちゃうような深ーーーい話題にまでももってけたりするし。ときには、価値観の違いをリアルに感じすぎて、それがその場所のキッチンの匂いや現地人の体臭とミックスされて、目眩が起きそうになるほどだ。歴史や古典に強ければ、京都・奈良の旅は何十倍も楽しめる。現在のその苔むした古寺に行き着くまでの人間の喜怒哀楽と思惑のドラマが走馬灯のようによぎって、古刹の前で涙が出てくるね。科学に強ければ、読める小説の種類だって、ぜんぜん違ってくるし、感動して泣ける映画の数ずっと多くなるし、というか、同じマンガでもアニメでも映画でも、ずううううと多角的な角度から、ずっっっっと深く深く深く味わえる。コンタクトのジョディーフォスターのセリフも、宇宙の生成から消滅までの壮大なイメージがあると、いっそう心に染みるぜー。株式投資にしたって、数字に強ければ、財務諸表をがんがん分析し、企業戦略と世の中の動向、そして自分の生活感覚をミックスさせてリアルに楽しめる血湧き肉躍る最高のゲームになる。

それから、(2)の仕事については、会社でもNPOでも、クリエイティブで面白いわくわくする仕事というのは、たいてい「能力」の高い人間に独占されているのが現実。「能力」のない人間は、たいてい下っぱで、ものごとが決まったあとに、決められたとおりに命令される側で、単調でつまらなくてシンドイ仕事が多く、どうでもいい人間だと思われ、ぞんざいに扱われる。乙一の言葉を借りるなら、「なんというか、エラくないのだ。」

そして、その「能力」とやらは、英語を使いこなしていること、数字に強いこと、法律に強いこと、社会のしくみをよく分かっていることなどの基礎的な力が前提となってる。プロジェクトの収支シートを見ながら次にどのような企画展開にするかの議論とか、すごいスピードで暗算で試算できないと、ぜんぜん議論についていけない。アイデアを出すどころじゃない。単純な足し算、引き算、掛け算のスピードは、子供のうちに徹底的に高速化しておくに限る。逆に、それが高速でできれば、稲妻と嵐の中を縦横無尽に疾走するような最高の高揚感が味わえる。

科学や歴史が必要かどうかは分野による。必要でない仕事も多い。ただ、できないとそれらが必要な仕事からは締め出される。古典や歴史の知識も、お客さんに教養人が多いとかの場合は必要だけど、それ以外はいらない。なぜか日本にはあまり教養人はいないので、教養はたいした問題にはならない。ただ、ビジネスなどで西欧人エリートとのつきあいがあると、教養の重要度は跳ね上がる。なぜだかは知らない。単に経験的にそう。

そして(3)の友達。能力があれば、友達が困っているとき助けてあげられる。能力がないと、かわいそうだと思いながら、見捨てるしかない。というか、自分の分ですら、夜遅くまでやっても終わらずヘロヘロになってるから、友達を助けるどころか、自分が助けて欲しいぐらいだ。たくさんの友達に切実に必要とされ、尊敬され、心から感謝されるというのは、気分がいいし、生きている実感がわくし、からだのなかから力がみなぎってくる。逆に、友達から必要とされず、軽視され、単なる遊び相手だと思われ、口先だけの感謝の言葉しかもらえないというのは、なんていうか気持ちがやせ細る。生きている実感がわかなくなってくる。生きる喜びが薄くなる。人間は、群れで生きる動物だから、その本能を満たしてやることは、動物本能として必要なんだろう。

それと、英語さえできれば世界中のいろんな人と友達になれると言うのは、幻想だ。基本的な教養がないとすごく友達の範囲も会話の範囲も限定されちゃう。旅行先で出会う欧米の人間は、基本的な教養が「共通言語」になっちゃってることがよくあるんだよね。平安時代の貴族のモテアイテムが中国の古典だったのに似てるかな?*2

先日も、オイラの彼女と二人でとある発展途上国をバックパッキングしてたんだけど、そのとき山奥で夕食のテーブルを共にしたアメリカ人の中年夫婦と楽しく盛り上がった。会話の中で、「それってダークマターみたいだね」とか「でもさー、歴史は権力者の都合のように書かれてるだけだから(フーコーだっけ?)」とか、奥さんに文句を言われて「いや、熱力学の第二法則に従ってるだけだし」とか言い訳したり(部屋を散らかす人なんでしょうね)、「じゃあ、日本でも神の殺害は起こったというの?(ニーチェ、もののけ姫のエボシなんかもそれだろな)」とか、「どこで食べるかは決まってるけど何を食べるかは決まってない (量子力学の不確定性原理のパロディー)」とか、輪廻転生とカーストの話とか、とある大手企業の粉飾決算の手口を笑い飛ばしたりとか、「あの政治家、(フロイトの)肛門期的性格だよなー」とか「うへ、それじゃビッグブラザーじゃん(オーウェルの1984)」とか、「熱帯雨林ではバクテリアの代謝が活発だから二酸化炭素を吸収するというのは辻褄が合わねえべ。」とか「これはデブのジーンズ(genes)を持った人用のジーンズ(ズボン)なんだ」とかいうジョークやネタが、先方からポンポンでてきた。

最後に、(4)の騙されないため。徒然草じゃないけど、「多くはみな虚言なり」というのは、いまも昔も変わらないんだ。そして、ホンモノの教養があると虚言に惑わされなくなる。たとえば、世の中に出回っているサプリメントのうち、9割か、もっと多くは、合法的な詐欺なんだけど、どれがインチキで、どれがホンモノか、どうやって確かめる? その道の権威は、研究費を企業にもらってるから、企業のスポークスマンだし。で、自分で調べていけば分かるけど、たとえばαリポ酸がほんとに効きそうなのかどうか自分で判断するためには、かなりの基礎学力が必要だぜ。ミトコンドリアの中の分子化学的プロセスの話とか出てくるし。クエン酸回路や電子伝達系しくみのどこでどう働くのかとか、その証拠はどのように確認されてるのかとか、ミトコンドリアで発生した活性酸素がほんとに核膜の中まで届くのかとか、活性酸素にもいろんな種類のものがあるけどそのうちのどれにどう働くのかとか。あるあるを見て理解したような気になることはできても、あるあるの言っていることのどの部分がどこまで本当かを「確かめる」ことはできない。いい情報も多いけど、インチキ情報も多いんだよ、テレビは。ダイエット食品や若返りと称した合法的詐欺も繁盛してるよな。ダイエット産業は「リピーター」によって成り立っているという構造があるんだよ。金融商品なんて、もう、合法的詐欺のオンパレードだ。それらインチキ商品をかき分けて、ほんとうにオイシイ金融商品どうやって購入するのか? 日本語の情報源だけだと、ぜんぜんだめで、やはり相当な英語力が必要だ。ためしに、日本語と英語で同じ情報をGoogleしてみればもう、歴然よ。そして英語力だけじゃなく、多くの金融概念が必要で、それらのいくつかは数字や数学っぽい考え方にアレルギーがあると、きちんとは理解できない。つまり、教養がなくても、情報はたくさん得られるけど、どの情報が虚言でどの情報がホンモノなのかを、「確かめる」ことができない。

以上が勉強することのメリットだけど、勉強すべきかどうか、なにをどのくらい勉強すべきかは、もちろん人によって異なる。ちょー美人で、ちょー大金持ちで、誰にでも好かれるキャラの女の子なら、普通の人ほど勉強しなくてもよいかもね。ただ、そうであっても、勉強したほうが、もっと楽しく遊べるし、もっとすばらしい友達がたくさんできるし、もっといい経験をもっとたくさんすることができるかもしらんぜ。。。とオイラは思うけど?

。。。とは言ったものの、これらは全部屁理屈で、現実には、先生の魅力次第なのよ。教える先生が、勉強のホントウの面白さがよく分かっている、人間的にもめっちゃ魅力ある子供以上に子供っぽい先生なら、その魅力は、いくらでも子供たちに伝えることができる。問題は、そういう勉強の楽しさが全身からあふれてくるような、勉強の面白さを子供たちに伝えるために労をいとまない先生が、めっっっっっっっっっったにいないということだね。だから、ここで書いたことは、みんな机上の空論で、そういう先生自体が、直接子供に語りかけないかぎり、その女の子の納得のいく答えにはならないと思う。というか、もっと深刻な問題は、そういう勉強のおもしろさに対する感受性のない子供、生まれつき菅原道真に忘れられちゃってるような子供がいて、そういう子は、たぶん、別の人生を目指すべきで、無理に勉強すると、かえって不幸になるから、そういう子にまで「勉強しなければならない」とかいうのは、ほとんど犯罪的だと思う。勉強なんてできなくったって、すばらしい人生を送る方法はいくらでもあるんだから。勉強することの最大のメリットは、勉強しなくても楽しく生きていけるということを知ることができる、ということかもしれない。

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●勉強にしろ、仕事にしろ、大人にとっての楽しさと、子供にとっての楽しさは、本質的に同じものだという話はこちら。
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*1:この劇場をはじめるずっと前のことです。

*2:今からツッコミを入れるとしたら、これは、ちょっとダウトだな。中国の古典は、単なるモテアイテムというより、政治的に重要な地位につくために必要だった。とくに、有力貴族の出身とかじゃなく、実力でのし上がる人たちにとっては。むしろ、恋愛のかけひきには、ひらがなが重要だったので、ひらがなの方がよっぽどモテアイテムだったのではという気もする。