新しい時代の道徳はどのようにして生まれるのか


自分の欲望にとって都合の悪いものを痛めつけ、排除することは、子供だけでなく、大人にとっても快感であり、内なる正義である。


子供はむき出しのエゴをそのまま押し通そうとする。
大人は、屁理屈と自己正当化でごまかしながら、エゴを押し通そうとする。


もちろん、無私の愛も美しい利他性も持っている。
しかし、他のあらゆるものを踏みにじって、自分の欲望を満たすことが、人間にとっての内なる正義だというのも、目を背けるわけにはいかない現実だろう。


しかし、エゴを押し通すには、他者のエゴを押しのけねばならない。
パワーゲームの始まりだ。


やがて、小さな村の中での、血みどろのパワーゲームに疲弊した大人たちは、休戦協定を結ぶ。


オマエのエゴを侵害しないようにするから、オレのエゴを侵害するのもやめてくれ。
オマエのエゴを満たすのを手伝うから、オレのエゴを満たすのも手伝ってくれ。
というか、みんなのエゴが満たせるような協定を作ろうじゃないか。


道徳の始まりである。


やがて、村は都会になった。
社会の流動化が加速し始めた。


人の出入りが激しくなり、昔からいる村人たち間にあった休戦協定をよく知らない流れ者が大量に流入してきた。
メンバーがどんどん入れ替わった。
昔からの人間関係が薄くなり、かつての休戦協定は、しだいに忘れられていった。
仁義なき戦いが始まった。


パワーゲームの再開だ。
しかし、今度は、かつてよりも遙かに大きな規模で。


とにかく、勝てばいい。


既得権益を握ったものが勝つ。
いい大学に入ろう。大企業に就職しよう。役人になろう。


とれるだけの権益をとれ。


勝ち組はおいしい仕事と報酬を牛耳ろうとする。
自分を潤わせてくれる資本主義を正当化する。


負け組は、福祉の充実を叫んで、少しでも自分の取り分を増やそうとする。
自分を敗北者に貶める資本主義を否定する。


金で幸せは買える。
株を買え。とにかく何でもいいから儲かればいい。
金を払ったら負けだ。払わずにごまかせるものは、すべて踏み倒せ。


偉そうな奴らはすべて引きずり下ろせ。
でかいつらをする聖職者を高台から引きずり下ろして、つばを吐きかけろ。
警察官の不祥事をあげつらえ。ろくでもないクソ教師に偉そうなことを言わせておくな。
官僚も政治家も汚職だらけだ。マスコミはウソばかり言っている。


とにかく、パワーゲームに勝って己のエゴを満たせ。


子供たちは、そういう親たちから学んだ。
この世界の本質は、パワーゲームであると。


子供たちは、自分のエゴを少しでも阻害するものを、排除する。
ムカつくやつが痛めつけられ、苦しむのを見るのは、とても嬉しい。
だから、いじめは楽しい。


しかし、自分がいじめられるのはいやだ。
自分だけは、いじめられないようにと、みなが巧妙にたちまわる。
やがて、子ともたちは、醜悪な政治ゲームの達人になる。


やがて、子供たちは、政治ゲームに疲弊してきた。
自分がターゲットにならないよう、いつも、神経を張り詰めていなければならない。
自由に言いたいことも言えない。
ちょっとでも、周囲に不快感を与えたら、自分がターゲットにされるからだ。
気の休まることがない。
うんざりしてきた。


しかし、子供たちの政治能力がどんなに発達しても、政治ゲームを終わらせられるほどの政治能力にまでは到達しない。
休戦協定を結び、みなでそれを受け入れるという、最強の政治テクニック(道徳)に至るには、ある種の跳躍が必要だからだ。


近年の進化人類学研究が明らかにしたところによると、チンパンジーボノボなどの類人猿は、休戦・調停などの高度な政治能力を持っている。


なぜ、類人猿ですら持っている政治能力が、喪失されてしまったのか。
それは、「道徳」は、単に知性によってもたらされるののではなく、「環境」という要素が決定的に重要だからだ。


「道徳」を醸成するには、社会のサイズが小さいことと、ある程度固定された人間関係が不可欠なのだろう。
小さな社会で、緻密な猿間関係のもとで暮らす類人猿の方が、「道徳」を醸成するには、有利なわけだ。


子供たちの社会は、小さなものではないのか?
しかし、道徳が醸成されるためには、十分に長い時間が必要なのだ。
だから、道徳は、世代から世代へ受け継がれてながら、集合知として醸成されていく。


しかし、子供たちが受け継ぐはずの、道徳を、両親はすでに喪失していた。
流動化した社会の中での、泥沼のパワーゲームの中で。


だから、子供たちが受け継いだのは、「道徳」ではなく、「パワーゲーム」だった。
子供は、親に言われた言葉を聞いて育つのではなく、親の行動を見て育つ。
親がどんなに「道徳」を教えようとも、親が「パワーゲーム」のルールで行動していたら、子供もパワーゲームで行動するようにしかならない。


だから、親は、結果的に、「教師ですらもパワーゲームをしているにすぎない」と子供に教えることになる。


そうすると、子供たちは、パワーゲームで教師を圧倒する方法にめざとくなる。
なぜなら、教師こそが、「自分の欲望にとって都合の悪いもの」を押しつける、最大の敵であるからだ。


こうして、学級崩壊が始まる。
教師が、授業を無視して勝手に走り回る女の子の手をつかんで止めようとすると、
「セクハラだ。教育委員会に訴える。」と脅す。
授業中に、トイレに行きたいと、つぎつぎに席を立って授業を抜け出す子供たちを、教師は止めることはできない。
なぜなら、それを止めることは「体罰に相当する」として教育委員会から禁止されているからだ。
めざとい子供たちは、それを知っている。


もちろん、この程度の政治ゲームで子供たちに授業を破壊される教師というのは、おぞましいほどの権力のぬるま湯の中で暮らしてきたアマちゃんだ、という側面もあるだろう。


民間企業で、世間の荒波に揉まれながら働くサラリーマンであれば、当然、このようなケースでは、政治ゲームでやり返せば済むはずだ、という発想をする。


たとえば、子供たちすべてが一枚岩なわけはない。
子供たちの間にも、利害や感情の対立はあるわけだ。


そこにつけ込んで、子供たちの結束を分断し、お互いを牽制し合い、攻撃のベクトルが教師に向かわないような巧妙な構造を組み立てればよい。
そして、隙を見て、各個撃破すればよい。


また、当然、根回しや裏工作をする。
雑魚と交渉しても無駄だ。
キーパーソンの利害や感情を見抜き、つけ込んで籠絡する。


背後にも兵力を忍ばせて、包囲網を築く。
すなわち、PTAでも、同様に、互いに対立させて分断し、牽制させ合い、利害につけ込み、キーパーソンから籠絡していく。


そうして、政治ゲームに勝利して、自分の権力基盤を築いてから、自分の理想とする教育を存分に行えばいいのだ。


また、自分の理想の教育が、結局は、子供たちの利益になることを納得させ、生徒にも両親にも、協力者を増やしていけばいい。


娑婆においては、理想とは、そうやって実現するのが、当たり前なのだ。
安易に、既存の権威や道徳に寄りかかるのではなく、自分の力で現実化するものなのだ。


古い道徳と権力に守られて、政治ゲームをすることなく、ぬるい授業をしてきた、古株の教師に、このごく当たり前の能力が欠落している教師がときどきいて、学級崩壊だのなんだのと問題になったりすることがあるわけだ。


結局のところ、社会の流動化によって仁義なきパワーゲームが支配せざるを得ない現代という時代においては、理想は、パワーゲームによって現実化するしかないのではないか。


そして、その理想が崇高なものである場合、理想を実現するために創られたその権力構造は、かつての「道徳」と似たものになることが多い。


そうして、学校に限らず、社会の至る所で、多くの大人たちが、パワーゲームによって自分の理想を実現し、多様な道徳構造を創り出していくと、その総和として、より豊穣で、柔軟性を持った新しい時代の道徳構造が出現するのではないのだろうか。


少なくとも、内閣主導の「品格」教育や、ワイドショーでコメンテーターが道徳を説くことより、そちらの方が、よっぽど効果が大きいのではないだろうか。