2010年、マッチョ主義によって日本社会のとてつもない大改革が始まり、人々の生活が根底から変わりはじめた


過酷なグローバル競争の中、BRICsVISTAが台頭し、統合ヨーロッパは域内労働市場の自由化で高成長し、アメリカも世界中の高度人材を吸収しつつバイオやITを中心に成長していた。
その中で、まともな成長戦略をもたない日本は、他国にどんどん追い抜かれ、日本の国際的地位はどんどん低下していった。


さらに、新興国の需要拡大で、原油レアメタル、食料などの原材料が高騰し、人々の生活はますます苦しくなっていく。
ふくらみ続ける医療費、介護費、生活保護費、そして高齢化、地方の没落。増え続ける非正規雇用ワーキングプア
日本の未来は暗く、ひたすら絶望的だった。


そんな中、あまりの日本のていたらくに
「そろそろなんとかしなければ、日本は終わってしまう。」
と本格的に危機感を感じ始めていた一部の人々は、自力救済を説くマッチョ思想に大いに共鳴するようになっていった。


そして、マッチョ運動が盛り上がりを見せる中、ついにNPO法人マッチョが設立された。
NPO法人マッチョは、多額の寄付金を集め、膨大な会員数をようするまでにいたり、一大勢力になっていった。


このグループには党派を超えて有力政治家が多数集まっており、
日本をマッチョ思想で改革するためのロビー活動を積極的に行っていた。


彼らの最初のターゲットは教育の大改革だった。
子供たちを幼いうちから、骨の髄までマッチョ思想で鍛え上げるのが、彼らの目的だった。


彼らは、相続税を教育目的税化し、相続税率の引き上げと税額控除の大幅な引き下げを行った。
もちろん、遺産を相続するはずだった人々は猛反発した。
しかし、マッチョ主義者たちは、その教育目的税によって、いかにすばらしい教育改革が行われ、
すばらしい日本の未来が切り開かれるかを
テレビ、インターネット、雑誌、新書などで根気強く訴えて世論形成を行ったため、
やがては反対派も次第に納得するものが増えていき、ついに改革法案が国会を通過するに至った。


実は、マッチョたちが、日本人総マッチョ化教育の財源として相続税増税を選んだのには、隠された感情が横たわっていた。
そもそも、マッチョたちの多くは、ある程度以上の資産をもつ富裕層だから、この増税によって資産を巻き上げられてしまうのは、マッチョたち自身のはずである。
にもかかわらず、何故、マッチョたちは自ら進んで自分たちの私財をまるごと人々に分け与えてしまうようなことをしたのだろうか?
これは、マッチョたちの意識の底に、「全ての富は、自分の責任において、自力で稼ぎ出すべきのもの」だという信念があるためである。親から遺産を相続することで富を得るという方法は、マッチョ的にはフェアな方法ではない。
マッチョたちの本音には、「金が欲しけりゃ、自分で稼ぐべきだ。」「親が金持ちだったからという理由だけで、自力で未来を切り開こうとしない弱虫ウィンプが、金持ちのぼんぼんとしてのうのうと暮らすのは許しがたい。」というものがあったのだ。


また、マッチョの基本は、自分で決断し、自分で実行し、自分で責任をとることである。
このため、必然的に、教育の裁量権の徹底的な現場委譲が進んだ。


校長を中心に、現場の教師たちは、親たちと話し合いながら、
自己責任でカリキュラムを決め、自己責任で教科書を選定した。


莫大な予算が教育現場に行き渡ったから、その予算の使い道も自由裁量で決められた。


ただし、マッチョ教育の基本方針だけは、中央から遵守するように義務づけられた。
また、現場の教師たちを洗脳するため、各校にはマッチョ思想の伝道師が送り込まれた。


マッチョ思想においては、いかなる状況に置いても自力で切り抜けられなければいけない。
この思想を、子供がまだ幼児のうちから徹底してたたき込むよう、まず親たちが教育された。


たとえば、公園にあるコンクリートと玉石の岩山に幼児がよじ登って降りられなくなり、
泣き叫んでいたとしよう。


この場合、親は、単にその幼児を抱きかかえて降ろしてはいけない。
幼児の手や足を玉石に一つ一つ導きながら、自分の力で降りていくやり方を教えるのだ。
泣いてばかりでは何も解決しないことを教え、不安と恐怖を克服し、現実に対処するための具体策をひねり出し、実行する精神をたたき込むのだ。
そして、下まで降り立ったら、良くやったと褒めてあげるのだ。


そういうことを何度か繰り返す打ち、子供は自力で降りることができるようになる。


マッチョ教育は、一時が万事この調子である。
可能な限り、子供に自己決定させ、自己責任で実行させる。
何か問題が起きたら、極力自分で解決させる。


たとえば文化祭も、運営規則、予算の見積もり、目的の明確化、成果の定義(何が達成されれば成功で、何が達成されなければ失敗なのか?)、教室や体育館などのリソースの割り振り、客の導線設計、スケジュール調整、運営組織とその命令指揮系統の設計、各出し物、できるだけ多くの客を動員するためのマーケティング戦略、客を魅了するための戦略、自分たちの持つコアバリューの洗い出し(萌え系のかわいい女の子のいるチームはその子の魅力を中心に出し物のコンセプトメイクをするなど)、すべて、子供たち自身で決めさせた。


もちろん、運営規則、予算、どこまでの出し物が許されるか、などは子供たちだけで勝手に決めることはできない。たとえば、女の子が水着で接待する喫茶店などきわどいものや、総合格闘技大会などの危険を伴うものは、学校側に許可を取る必要がある。


なので、それを学校側に認めさせるために、職員室に乗り込んで教師と交渉する。
交渉によって自分の意見を押し通し、相手に認めさせるのはマッチョの基本だ。


もちろん、いきなり正面から交渉にのぞんでもうまくいかないので、最初はつっかえされる。
そこで、子供たちにアドバイザーが入れ知恵をする。


アドバイザーは、交渉で自分の意見を押し通すには「根回し」が重要であることを教える。
あらかじめ、個々の教師に根回しをし、自分たちの意見に賛成してくれるよう、多数派工作をして回るのだ。


また、根回しによって、どんな部分が教師側として譲れないことで、どこをどう直せば、
教師側として妥協可能なのかもあらかじめ情報収集しておく。


その情報をもとに、出し物の必然性を訴えるためのロジックを練り上げ、自説を支持するための根拠データを集める(たとえば、ネットから情報を収集し、他の高校では実際に水着によるミスコンが行われているのだから、水着喫茶も認められてもおかしくないはずだ、云々)。


また、成果目標を教師たちに約束することで、予算に見合った効果が得られることをアピールし、望むだけの金額の予算を獲得する交渉を行う。これだけの観客を動員し、これだけ有意義な時間をみんなに過ごしてもらうのだから、これだけの予算など、安いものだ。投資に見合うだけのものは、まず得られるだろう、と企画書を作ってアピールするのだ。


そうして、ようやく子供たちの望む予算、出し物、運営規則、スケジュールを教師に認めさせると、こんどはそれを親たちも含めたPTAで証人会議にかけられることになると伝える。


ここで、子供たちは、意思決定メカニズムというものやっかいさを体験する。
自分たちの要求が正式に承認されるためには誰と誰の賛同が必要で、あらかじめ誰と誰に
根回ししておかなければならないのか、その意思決定プロセス全体を把握しないと、
場当たり的に根回しするだけでは、自分たちの意見が押し通せないことを学ぶ。


結局、教師だけでなく、親たちの中のキーパーソンにも、
あらかじめその要望の主旨を伝え、理解を求め、妥協点を探るなどの根回しをする。


当然、これらは、文化祭だけの話ではない。
運動会、弁論大会、各種部活動の運営も一事が万事この調子である。



また、マッチョ教育においては、いかなる環境に置かれても自力救済できる人間を育てることが
第一の目的であり、そのために必要なスキルが最優先して教え込まれる。


マッチョ教育思想からすると、いくら、「ありおりはべりいまそかり」や源氏物語の知識があっても、
ワーキングプアやホームレスから抜け出せなくなるようでは、本末転倒なので、
そういう生存に直接役に立たない知識は、あくまで、子供の好みで自由選択されるにとどめられる。
古典趣味の同好の士が集まっての日本の古典文学研究会などの部活動や自主セミナー、自発的な勉強会のような形が主であり、全員に古文の知識が強制されることはない。


マッチョ的価値観からすると、教養などよりも、自力で自分と家族を十分養っていけるような力
を身につけさせる方がはるかに優先度が高いのだ。
教養など、余裕のある人間が趣味でやるか、学者志望者か、
もしくは実力と教養を兼ね備えたエリートにのし上がりたい連中だけがやっていればいいものなのだ。


また、親と教師の定期総会に、産業界のエース人材を定期的に招いて、
今後世界の産業構造がどのように変化し、どのような人材が求められるのかの話を聞き、
どのような教育方針でやっていけばいいのかを話し合う。


また、兵役に似たシステムによって、産業界の第一線で働いているビジネスマンが、
教育現場に送り込まれた。
現場で活躍する有能なビジネスマンは、会社のプロジェクトのきれのいいところで一年間休職し、
一ヶ月の研修期間を経て、前職給保証で子供たちのいる学校へ教師として送り込まれる。


ビジネスの現場から送り込まれた教師の第一の目的は、
現在の世の中がどうなっており、
今後世の中がどのように変わっていき、
子供たちが大人になる頃にはどんな世界になり、どんな人々が
どんな働き方をしているかを、子供たちに、実感として伝えることである。


第二の目的は、企業側の将来的な人材ニーズを教育現場に理解してもらい、
将来の人材供給が滞りなく行われるようにすることである。


また、社会科見学も、たくさんの時間を割いて頻繁に行われる。
企画、マーケティング、人事、経理、財務、総務、営業、法務、経営企画、デザイン、設計、プロマネ、SE、PGなど、世の中のさまざまな産業のさまざまな職種について、かみ砕いて根気よく説明しておく。


それぞれの職種において、どのような問題があり、どのような変革が起き、人々の喜怒哀楽の人間ドラマがどのように展開されているのかを、生々しく伝える。


基本的に、マッチョ教育とは、強い人間を育てることを目標にしているので、
子供たちに有害な情報を遮断したりはしない。
そもそも、少々の有害情報に惑わされて危ういことをしてしまうような弱い人間に
ならないように教育するのだ。


子供たちを無菌室で安全に育てるのではなく、
雑菌だらけの娑婆でたくましく生き抜けるような強い人間に育てるのだ。


だから、ある程度以上の年齢の子供には、
ケータイにもWebにも基本的にフィルターはかけない。


そのかわり、ネットにあふれるありとあらゆる有害情報や悪い大人から自分の身を守る方法を
大量の時間を割いて、徹底的に教え込む。
誘拐、強姦、覚醒剤、詐欺、濡れ衣、などなど、あらゆる悪意を持った人間の悪意を持った手口と、具体的な被害事例の赤裸々なケーススタディを行い、それへの最も効果的な対処法を徹底討論させ、骨の髄まで教え込む。



また、大量の教師と補助教員を教育の現場に送り込み、超少人数制の教育を行う。


ある程度以上の学歴のある専業主婦やリタイアした老人などのうちの希望者は、
簡単な適性検査のふるいをかけ、基礎研修を受けたあと、
パートタイムの補助教員として現場に送り込まれる。


そして、大学生は高校生の、高校生は中学生の、中学生は小学生の補助教員として手伝う。
また、同じ小学生でも、上級生が下級生に教えることもする。
自分の習った知識を他人に教えることで、自分の知識やスキルが自分の血肉になっていくからだ。


さらに、英語圏からたくさんの教員を採用する。
全ての子供はバイリンガルに育てられる。


助教員も含めて教師とカウントすると、教師1人につき4人の子供という割合になる。
このため、教師や補助教員はかなり家庭教師に近いスタイルで教えることとなる。


また、教師も補助教員も、頻繁に講習を受けて、最新の教育技術を身につけ、
継続的なスキルアップにつとめる。
また、しょっちゅう勉強会やノウハウ共有会を開き、
諸外国や他の自治体の成功事例などをケーススタディし、自分たちの
授業に取り入れることを学ぶ。
お互いがお互いの教え方をチェックし合い、切磋琢磨するようにする。
また、上手くいった教え方をブログやSNSで情報共有するようにする。


基本的に、授業を40分ごとに細切れにするようなことはしない。
もし、ある課題で子供たちが夢中になったら、子供たちが飽きるまで、何時間でも、
何日でも同じ課題に取り組む場合もある。
40分などという杓子定規の切り方をすると、せっかく上がってきた子供たちの集中力が
台無しになってしまうからだ。


なにより、マッチョは受け身の学習などするべきではない、というのがマッチョ思想の根本にある。
マッチョはなにごとも自分が納得するまで徹底的に調べつくし、咀嚼しつくし、自分の血肉にする。
教師が与えてくれる知識というエサを、鳥のヒナのように口をあけてまっているようなことはしない。


マッチョは肉食獣なのだ。マッチョとは、自ら知識やスキルを狩りに行く者でなければならない。
だから、子供たちは、みずから徹底的に、攻めて、攻めて、攻めまくって、知識と技量を食らいつくす姿勢をたたき込まれる。
当然、授業は子供たちがガンガン質問し、むしろ子供たち主導で学習が進んでいく。


これは大人の職場環境をシミュレーションするやり方でもある。
とくに知識労働者の仕事は40分などという細切れで行われたりはしない。
大人の仕事は、タスク単位、課題単位であり、基本的にはその課題を片付けるために、
何時間でも集中する。
あるいは、仕事で必要なソフトウェアの使い方が理解できるまで、マニュアルを読みながら
何時間でもパソコンに向かう。
子供たちの学習も、ある課題や概念やテーマを理解するため、何時間でもネットを検索し、
納得のいくまで教師に質問し続ける。あるいは、みんなが腑に落ちるまで、友達同士で話し合う。


中学生・高校生・大学生は積極的にディープな職場見学、職場研究、インターンを行い、さまざまな職場の、さまざまな業種についての理解を深める。
子供たちに仕事を教える企業には、指導料が支払われる。企業側は、ちゃんと担当者を付けて、マッチョ教育された子供たちの徹底的な質問攻めに、根気よくつきあう。
我々の仕事の目的は何で、どんなところが面白くて、どんな部分が難しいのか、現在の悩みはなんなのか、リアルに、丁寧に、どんなきわどい質問にも、可能な限り包み隠さず答える。


こうして、子供たちと企業との交流が行われる中で、即戦力になるような子供が出てくると、
企業側から子供にオファーが出される。
子供は、いつでも学校を辞めて企業で働くことができる。
そして、区切りのいいところでまた、学校に戻って、改めて学習の続きを行うようにする。
学校と企業は気軽に行ったり来たりができるようになっている。



また、子供たちの知力・能力を測定するための、良質の統一テストをどんどん開発する。
このテストの目的は、学歴を陳腐化させてしまうことである。


現在、社員を採用する上で、社員のポテンシャルを測定するのに、最も信頼のおける目安が、学歴となっている。
実際に、東大・京大・一橋・早稲田・慶応などのブランド大学卒の社員は、
有能で、環境の変化にも柔軟に対応できる人材が多い。


しかし、学歴はあくまで、おおまかな目安でしかなく、東大卒でも無能な人間はたくさんいるし、
三流私大卒でも有能な人間もけっこういる。


社員の有能さにある程度あたりをつける目安として、学歴以上に信頼のおける指標が確立されれば、
企業側にとっては、その指標を使ってより高い精度で有能な人材と面接することができるため、
採用コストが削減できるし、誤って無能な人材を採用した人間を辞めさせるためのコストも減らすことができる。


このため、世界中から能力テストの専門家を集め、さまざまな企業からも要望を吸い上げ、
それこそ2日間ぐらいかけて、高度知識労働者としての能力を高い精度で測定する
全国統一基本テストを開発する。
高校生以上になると、少なくとも年に1回そのテストをうけることが義務づけられる。
また、そのテストの結果はすべて公表される。


ただし、このテストはあくまで、基本的な思考能力、知力、新しい環境への適応能力を測定するものであって、
知識量を測定するようなものではない。
そもそもこのテストはパソコン上で行われるのだが、問題を解くのに必要な全ての知識は全てそのパソコンに格納され、自由に検索できるようになっている。
知識は陳腐化するし、その都度必要に応じて学習すればいいだけのものなので、暗記を中心とした詰め込み教育には意味がないと考えるのだ。


さらに、企業側のニーズを拾い上げ、分野別に、さまざまな特性を持った能力テストを開発する。
たとえば、数学や物理の基礎的能力が重視される技術系の職種のために、そのポテンシャルを測定する
目安となるテストを開発する。


このテストはある意味、評価関数として機能してしまう。
つまり、各教師はこのテストのスコアが伸びるような教え方をする。
このため、このテストの開発は非常に慎重かつ念入りに行われ、
時代のニーズに合わせて、頻繁かつ柔軟に改良される。


マッチョ教育の大きな特徴の一つが、ビジネスの現場と密に連携しているということだ。
マッチョとは、誰の助けも借りず、弱音を吐かず、自力で自分の人生を切り開くような人間である。
当然、自分と自分の家族の食い扶持ぐらい、自力で稼げなければならない。


逆に、自力で稼ぎ続ける力さえあれば、あとの能力は少々おろそかでもだいたいなんとかなる。
このため、マッチョ教育においては、職場環境が変わっても、柔軟に自分の居場所を見つけ、
どんな状況でも、タフに自分たちの食い扶持を確保する能力の養成を、最優先する。
これは、ある種メタスキルとでも言うもので、あたらしいスキルを短期間でマスターし、
使いこなし、価値を創造し、お金を稼ぐ能力が重要とされる。


このメタスキルに加え、プレゼンテーション能力、英語、情報技術、ファイナンス
マネージメント、マーケティング、法律など、
自分でビジネスを興すときに必ず必要となってくる能力は一通りマスターしておくことが義務づけられる。
就職や転職とは、ようするに自分をマーケティングすることなので、基本的なマーケティングスキルが
あれば、職を失うようなことがあっても、次の職を確保しやすくなる。
さらに、会社を辞めて自分で出資者を集め、起業することもできる。


もちろん、情報技術とは言っても、特定のプログラミング言語の知識などいつ陳腐化するか分からないので、
それほど深くは教えない。
それよりも、ソフトウェアシステム設計の基本と、システムの要求仕様を定義する方法を教える。
また、さまざまな職場で、
「どのようなポジションにいる人は、どのような情報をどのようなタイミングでどこから入手すべきで、
どのような情報をどのようなタイミングで誰に発信しなければならないか」
などを定義し、組織を設計・運用する力など、もっと本質的なレベルで情報を扱う能力を培う。


また、数学、科学、文章能力は、つねに、将来、さまざまな状況に直面したときに、
その状況に適応し、自力で未来を切り開くための力になるような教え方をする。
現在の大学入試問題のような、パズルのような数学の難問を解くことに使う
時間はぐっと少なくして、それよりも、人類の遺産である、
高度で有用なたくさんの科学や数学の概念を深く緻密に理解することを優先する。
将来、それらが実際に必要になったときに、それらを思い出して現実の問題解決に応用できるように
しておくのだ。


また、従業員のOJTを行う企業には補助金が出る。
これにより、企業はスキルのない新人でも気軽に雇い、中で養成することが出来るようになる。


これらのような、「自力で稼ぐ力」を身につけ終わったあとは、各種の職業訓練校に行くなり、
大学で学問をするなり、古典・文学・歴史などの教養を身につけることができる。
ただし、学問や教養はあくまで、本人が特に希望した場合のみしか教えない。


このため、高校卒業後すぐに職業訓練校に行って、即戦力スキルを身につけ次第、
企業に行ってしまう人間の数が増える。
そもそも、学歴よりも優れた基礎能力指標があるので、
学歴のあることはとくに就職で有利になるわけでもなく、大学など行く必要がないのである。
このため、日本中の三流私大がばたばたとつぶれている。
職にあぶれた大学教員たちは、日本全国の高校が片端から吸収していった。


残った大学も企業の委託研究をどんどん行い、産学連携が加速され、
半ば企業と融合したような産学複合体があちこちに生まれた。


このマッチョ量産システムは、どんどんマッチョ人材を生み出し、強力な戦力を
産業界に送り出し続けた。


すぐに彼らは現場でめきめきと頭角を現しはじめ、
生ぬるいマッチョ教育以前の世代を駆逐しはじめた。


彼らは、幼い頃からあらゆる状況を自力で打開するマッチョの英才教育を
受けて育ったため、そのタフさは、それまでの世代とは桁違いで、
ブルドーザーのような恐るべきパワーで企業内部を作りかえていった。


ビジネスの現場でキャリアを積んだマッチョたちはますますパワフルになり、
どんどんスピンアウトして、マッチョ同士が集まってマッチョ純度の高い企業が
雨後の竹の子のように生まれていった。


これらの企業は恐ろしくタフであるため、古い世代が牛耳る生ぬるい日本企業が、
彼らに市場を食い荒らされ、崩壊してしまうことも多かった。


なにしろ、従来の企業が新世代マッチョ企業にシェアを食われ、疲弊し、
疲れ切った社員が、居酒屋で愚痴をこぼし、
「暑苦しいマッチョどもには、いいかげんげんなりするよな。
あいつら、脳みそまで筋肉でできてんじゃないの?
もうちょっと、やさしさとか、人間らしい感情はないのかね?」
などと、マッチョの悪口を言いあって、そうだそうだと共感し合っているころ、
マッチョ企業のマッチョ社員たちは、一言の弱音も言い訳も愚痴も漏らすことなく、
どんな難問に直面しても、陽気なジョークで笑い飛ばしながら、
次々に新製品、新サービス、新戦略を作り上げ、事業拡大に邁進していたのだから、
戦いは羊の群れを蹴散らす狼の様相を呈してきた。


そして、幼い頃から、ネイティブから英語の英才教育を受けて育ったマッチョたちが
日本企業の尖兵として、世界中に進出しはじめると、
世界は、このちっぽけな東洋の島国に、再び日が昇りはじめたことを確信した。


しかし、一方で、大量の弊害が生まれた。
マッチョが日本の企業に浸食するにつれ、ヌルい人材がつぎつぎに駆逐され、
大量の失業者が生まれたのである。


たしかに、マッチョたちは次々に新商品や新サービスを開発し、
ビジネスを創造し、市場を創造し、雇用を創造してくれた。
しかし、その雇用とは、マッチョや高度知識労働者のための雇用であって、
マッチョによって企業からたたき出された失業者は吸収してくれない。


そもそも、マッチョは、愚痴や弱音や言い訳ばかりする弱虫ウィンプに哀れみの目を向け、なんとかしてやりたいとあれこれアドバイスすることはあっても、実際にいっしょに仕事をするなどまっぴらごめん、というのが本音だったのだ。
マッチョはイデオロギーであり、宗教なので、ウィンプはマッチョ教信者に改宗しないかぎり、マッチョたちに受け入れられることはないのだ。
だから、職にあぶれて泣き言や言い訳を言い続けるウィンプたちをマッチョ企業が雇うわけもなかった。
弱虫ウィンプが、「ボクチンは弱いのだから、ありのままの弱いボクチンを受け入れてくれよ〜」と泣きながら言ったところで、それはマッチョ教の教義に反するので、断固として受け入れるわけにはいかなかったのだ。そういうウィンプに対しては、「こうすればおまえもマッチョになれる。改心して、おまえもマッチョになれ」と言うばかりで、話は平行線だった。


このため、企業の求人倍率は非常に高いにもかかわらず、
街には失業者があふれているという奇妙な現象が起こった。


そして、政府や各自治体は失業者を再教育してマッチョに鍛え直す施設を作った。
しかし、失業者の多くは、弱い人間を弱いまま受け入れることを拒否する暑苦しいマッチョ主義にウンザリしているうえ、マッチョに反感を持っている人間も多かったため、再教育はなかなか進まなかった。
その上、彼らの多くはすでにかなりの年齢に達しているし、心身ともに疲れ切って、鬱病自律神経失調症などを抱えていることも多く、再教育してもなかなか使える人材にはならなかった。


何より、幼い頃からマッチョの英才教育を受けてきた世代は、
どんな窮地に陥っても動じない心、不安や恐怖を克服する克己心、
常人ならそのまま心が折れてしまうような酷い痛手を負っても
すぐに立ち直って陽気に笑い飛ばしてしまう馬鹿げたタフネスがあり、
もはや同じ人間とは思えないほど精神の筋肉量が異なっていた。


企業をリストラされたウィンプたちの脆弱な精神を少々鍛え直したところで、
こんな化け物相手に渡り合えるようにはとうていならなかった。


しかし、一方でマッチョたちに牛耳られた経済はますます絶好調になり、政府の税収もどんどん増えていった。
このため、政府は、生活保護基準をどんどんゆるめていき、失業者に快適な住居を与え、
生活費をたっぷりと支給し、生活を保障した。
生活保護世帯は何倍にもふくれあがり、働かずに暮らす人間の数がますます増えていった。


やがて、旧世代の多くは、すっかり心が折れてしまい、新世代のマッチョたちに
どんどん座を明け渡し、引退していった。


そして、実権を握ったマッチョたちは、ますます経済発展を加速させ、
政府の収入はますます増えていった。


政府の財政黒字はさらに加速度的にふくらみ続け、失業者も生活保護世帯もふくらみ続けた。
そしてついに、政府はベーシックインカムを導入し、
日本中からホームレスもワーキングプアも完全にいなくなった。


もはや、働かなくてもかなり豊かに暮らせるようになった旧世代のある中年は、
「もはや、私たちの役目は終わった。我々はもう経済を支えなくてもいいんだ。
マッチョたちに任せておけば、日本は安泰だ。
金を稼ぐのはマッチョの役割。ゆっくり余生を楽しむのが私たちの役割だ。」
と言いながら、寂しそうに笑った。