西暦2026年の日本

西暦2026年。
PC上のテレビ会議の品質は、直接会って話をするのとさほど変わらないほどに向上した。回線容量やモニタサイズ&解像度の劇的な増大の必然的帰結だ。相手の表情や息づかいのわずかな変化すら感じ取れるほどだ。マイクやWebカメラの性能向上も寄与しているだろう。
これにより、取引先の会社を訪問する回数が激減した。出張の回数も激減した。在宅勤務が激増し、そもそも会社のオフィスに通勤すること自体が大幅に減った。会社によっては、出社は、ほとんど儀礼的な意味しか持たなくなった。オフィスを次々に縮小したり、閉鎖する会社があいつぎ、オフィス自体を持たない会社すら登場した。
そして、この膨大な回線容量を通じて、海の向こうから、安価で品質のよいサービスが津波のように押し寄せた。インドやフィリピンをはじめとする、発展途上国の膨大な人口は、ついに貧困から抜け出す突破口を見つけたのだ。それは、ネット経由の知識労働提供という突破口だ。何十億という、すさまじい人口が、豊かさを求め、地響きをあげて、突進を開始した。
もはや、ネットを経由して海の向こうから提供される知識労働力は、ソフトウェアプログラムやWebサイトの開発、保守、運用だけではない。また、家庭教師のような、典型的な知識サービスだけではない。
家庭、ビル、工場、商業施設、いや、都市そのものが、無数のネットワークカメラ、センサー、ネットワーク経由リモートコントロールされる様々な機器の網の目に覆われることにより、仕事や生活の空間における実に多くのサービスが、海の向こうから、ネット経由で運用されるようになったのだ。ビルやマンションの廊下、公共スペース、駐車場などでは、警備ロボットや、お掃除ロボットですら、海の向こうの警備員や掃除夫がコントロールするケースがどんどん増えてきている。
もちろん、性産業も例外ではない。ネット経由でコントロールされる様々な性器具が開発され、イノベーションを繰り返し、海の向こうから、大量に押し寄せた。なにしろ、かすかな表情の変化や、息づかいまでがリアルに伝わるほどの回線容量なのだ。
そもそも世界最古の職業は売春であった。また、前世紀の終わり頃、それまで一部の研究者のものでしかなかったインターネットを、一般人にも普及させる大きな原動力の一つとなったのがポルノサイトであったのも偶然ではない。経済というものの本質がそこにはある。あらゆる経済活動は、徹底的に突き詰めると、人間の欲望にたどり着く。人間の欲望こそが、あらゆる経済活動の「唯一」の動力源であり、これ以外に経済の存在理由などない。もし、人間から、あらゆる欲望が消失したら、世界経済そのものが、完全に消滅する。そして、人間のもっとも基本的な三つの欲求である、食欲、性欲、睡眠欲に基づくサービスの中で、ネット経由で提供するのに、もっとも適したサービスが、性欲のサービスなのだ。
さらに言うと、性サービスは、音楽と同様、言語の障壁があっても、なんとか成り立ってしまうところがある。たとえ、あまり勉強の得意でない少女が、けなげにも一生懸命憶えた、たどたどしい英語であっても、身振り手振りとの組み合わせでなんとかサービスとして成立してしまう。
また、エイズ禍に悩んでいた途上国の政府とも、利害が一致した。黙認するどころか、性産業のネット化を後押しする途上国政府すら出てくる始末だ。もちろん、エイズの恐怖におびえながらも、今日を生き抜くために、体を売っていた売春婦たちにしてみれば、命の危険なしに収入を得られると聞いて、飛びつかないはずがない。
もちろん、買春する側の先進国の男性にしてみても、リアルの性産業に比べて、膨大な数の女の子の選択肢がある。過去画像や動画をじっくり吟味し、納得のいくまで選ぶことができる。性病、とくにエイズの心配がない。そればかりか、表情や息づかいが感じられるほどのリアルさに加え、ほとんどどんなポーズでもとってくれる。はじめは抵抗のあったが、やがて当たり前になった、お互いの性器に装着したネットワーク対応のさまざまな性器具をコントロールして行われるさまざまな双方向プレイが、エロ雑誌を買うような値段で買えるのだ。そして、コストパフォーマンス的にすばらしいだけでなく、複数の少女を同時に調達したり、さまざまな服を着せたり、いろいろなシチュエーションプレーをさせたり、少女同士を絡ませたり、データグローブとボディースーツでさわりあったりと、イノベーションと創意工夫が繰り返され、急速に多様で充実したサービスが開発されていった。インターネットのサービスは、地理的な障壁や囲い込みがないため、常に、全世界が競争相手であるし、容易に相手のイノベーションを取り込めるので、リアルでは考えられないほどのすさまじい速度で進化していくのが常だが、ネット経由の売春も、その例外ではなかった。
そして、ネット以前の労働力流通において、ベルリンの壁よりもはるかに強固な障壁としてたちはだかっていた国境という壁が音を立てて崩壊したあと、最後に残ったのは、言語という壁だった。翻訳というのは、多くの人間が考えている以上に、高度に人間的な作業であり、機械翻訳には、どうしても限界があるのだ。そして、Yahooやマイクロソフトを絶対君主に押し上げた、あの悪夢のようなネットワーク外部性の効果が猛然と働き始める。ネットワークの価値は、そこにつながっているノードの数の自乗に比例する、というアレだ。
流れが決定的になったのは、主に、発展途上国で高等教育を受けた者たちの集団が、インターネット経由で家庭教師をやり出したあたりだろう。発展途上国では、せっかく高等教育を受けても、高等教育を生かせる産業自体が少なかった。このため、就職先のない大学や大学院卒の優秀な人々が、ネット経由で家庭教師をやり出したのだ。
先進国の知識労働者たちは、自分たち自身が、高度に競争的な知識経済社会を生き抜くために、基礎的な知力を鍛え上げることの重要性を痛感していたので、自分たちの子供に優秀な家庭教師をつけることの重要性をよく理解しており、すぐにこのサービスに飛びついた。
その頃には、すでに、実にたくさんのソフトウェアシステムの開発、保守、運用が、インドをはじめとする途上国で行われるようになっていたし、英語圏の国での電話案内の向こうには、インドやフィリピンのテレフォンオペレータがいて、英語ベースでネットワーク越しにサービスを購入するという経済の流れはすでに形成されつつあった。そして、その、新たな経済潮流は、急速に拡大し、競争が激化し、淘汰が生まれ、価格は低下し、質は向上していった。
こうして、英語による知識労働力の潮流がネット経由で怒濤のように流れ出すと、他の言語によるネット経由サービスとの間に、コストパフォーマンスに大きな差ができはじめた。その要因は、いくつか考えられるが、まず第一に、知識労働力提供者の、生活コストの差が、おおきく価格に反映するという要因がある。特に、日本のように、生活コストの高い国の家庭教師の賃金は、生活コストの高さを反映して高くなるのに対して、途上国の家庭教師は、生活コスト自体が、日本より遙かに安価であるため、より安い値段で労働力を提供することができる。
次に、発展途上国では、高等教育は英語で行われることが多い。明治の初期に、たくさんの外国語に対応する日本語の訳語を造語した日本に比べると、そもそも、母国語では、高度にアカデミックな議論をすること自体が困難なのだ。それに加え、教授陣の多くは、英語圏の大学で学位をとっている。さらに、英語を話せることがステータスであるということもそれに拍車をかけている。
このため、こと、高等教育を受けた人口の言語比率で言うと、英語人口が、圧倒的に多く、労働力の供給量が多い。需給バランスで見ても、英語知識労働者の供給量は、その潜在需要と比較しても、十分に充実している。
さらに、ロングテールの法則が、決定的な影響を及ぼす。知識というのは、本質的に、スケールメリットが強くきく。経済が多様化し、ニッチな知識サービスになればなるほど、一国の知識サービス消費者では、需要として十分ではなくなる。スケールメリットがきかない。いや、今の時代、一国という概念は、時代遅れで、「一言語圏」という言い方が適切だろう。実際、すでに四半世紀も前の西暦2000年の段階ですでに、ニッチな分野のソフトウェア工学についての本など、英語でしか出版されない書物も多かった。
また、時代の流れは、ますます加速度的に速くなっており、どれだけ早く最新の知識が手に入れられるかが勝負の分かれ目になることもあり、英語の情報が母国語に翻訳されるまでの数ヶ月間に、海の向こうのライバル企業に差をつけられてしまうことにもなる。
こうして、日本をはじめとする、非英語圏では、ネットへの依存度の高い知識産業に従事する知識労働者から、仕事が次第に英語化していった。すでに、四半世紀前の、西暦2000年代ですら、新生銀行のシステムがインドのソフトウェア開発会社に発注され、1/3のコストと1/10の開発期間で開発されるなど、めざましい成果が生まれつつあり、その兆候は見え始めていた。そして、そのように、途上国の知識労働力を縦横無尽に使いこなすには、自社の業務が、徹底的に英語化されていなければならない。なぜなら、ソフトウェアシステムの開発とは、あくまで設計作業であり、橋やダムを作るような製造行為とは、決定的に異なるからだ。仕様書を書いて、それを翻訳して、それを渡して、はい終わり、では、すまされない。その頃から、すでに、ソフト開発とは、本質的に外注することの不可能な、ほとんど経営行為ともいえる、会社にとってきわめて本質的な行為であることが、理解され始めていた。つまり、自社の業務システムを外部の会社に開発してもらう場合、それは、外注を使うと言うより、むしろ、コラボレーションになるのだ。
このため、発注元の社員は、トップマネージメントはもとより、末端の仕様の細部をつめる担当者まで、すべてのドキュメント作成、メール、打ち合わせを、密に英語で行うことが必須になっていく。そして、それをできない企業は、割高な日本のソフトウェアエンジニアを使わざるを得なくなり、競争力を失っていく。ネット経由で、何億のも優秀でコストパフォーマンスに優れた高度知識人材を、自在に調達し、コラボレーションできる会社と、小さな日本の知識人材市場からしか人材を調達できない会社とでは、圧倒的に競争力が異なる。もはや、ソフトウェアエンジニアリングは、あらゆるビジネスの根幹となっており、ここでの劣勢は、ビジネスそのものの敗北に直結する。ここで妥協は許されない。
そうして、日本の知識産業においては、流暢な英語能力は、もはや当たり前であり、英語能力の低い労働者は、よりつまらない仕事に追いやられ、年収はどんどん下がっていき、失業することすら増えていった。また、高等教育を、英語圏の大学で受けた人間と、そうでない人間の平均年収の格差が誰の目にも明らかになっており、それを目の当たりにした親たちは、大学どころか、子供がまだ小さいうちから、ほとんどの授業を英語で行う私立の中学や高校に入れたり、あるいは、英語圏に留学させるのが、当たり前になっていた。
それに加えて、オンラインの家庭教師サービスは、同じ値段なら、英語ベースの家庭教師の方が圧倒的に優秀だし、また、同じ品質なら、圧倒的に価格が安かった。このため、子供たちは、幼い頃から、英語ベースでオンライン家庭教師サービスを受けて育つことになった。また、私立の小中学校の中には、そもそも、学校自体が、多くの海外の優秀な教師をかかえることを売りにし、ごく少人数のクラスと、マンツーマンの指導を安く提供することを売りにするところまでが出てきていた。
そうすると、英語で知識を獲得した子供たちは、アカデミックな話題になると、たとえ家族のあいだですら、英語混じりになったりするし、会社で毎日のように英語を話している両親も、めんどくさくなって、家庭での会話も英語になりがちになっていく。
しかし、このような経済の変化は、高品質テレビ電話もたらしたインパクトのうち、ごく些末的なことに過ぎない。むしろ、より本質的で、影響が大きかったのは、テレビ会議のログがとられるようになったことである。ストレージコストが劇的に安くなったこともあって、基本的に、ほとんどのテレビ会議の動画ログがサーバーに蓄積されるようになった。それらは、縦横無尽に検索できるようになっている。ムービーファイルの中の音声は、音声認識ソフトにより、完全ではないにしろ、ある程度の精度でテキストファイル化されているし、そのテレビ会議システムで使われたワープロ、表計算、プレゼンテーション資料中に使われた文字列でも検索できる。ホワイトボードに書き殴られた文字列も、ある程度認識される。もちろん、時系列グラフとして表示でき、ある特定の人物の発言している部分だけ、動画ブラウズするようなことも簡単だ。
そして、社員の顧客、同僚、上司、部下、フリーの外部スタッフとのやりとりを含め、すべてがログにとられており、それがサーバに蓄積されていく。これにより、いちいち無駄に多くの会議に出なくても、あとから、会議のログを検索し、重要な部分のムービーだけを再生しておけば、事足りるようになる。また、言った言わないでもめることもなくなる。さらに、各人のパフォーマンスが、極限まで透明化されていく。上司が部下の人事評価を行うとき、この過去ログが、抜き打ち検査される。そして、その上司の評価が妥当であるかを、上司の上司が抜き打ち検査する。もし、上司が、ゆがんだ評定をしたとすれば、上司の上司によって、上司の評定が下がることになる。
また、取引先とのやりとりも、いつでも抜き打ちでログを調べることができ、段取りの悪い外注先を切り捨て、よりよい外注先に切り替えることが容易になる。ルーズなマネージメントが、徹底的に排除さていく。
その結果、社員やフリーの外部スタッフ、提携先が提供するバリューが透明化され、調べようと思えば、いつでもどこでも、時空間を輪切りにして、精密に調べることができるようになった。人類の歴史のほとんどにおいて、おおよそ透明と言えるのは、自分が直接生きた時空間だけであり、自分が直接出席した会議だけだった。それが、人類史上初めて、自分が生きた時空間以外の時空間を透明化し、芥川龍之介の藪の中を覗けるようになったのだ。
この結果、いままで誰もがうすうす気づいていながら、恐ろしくてだれも直視することのできなかった問題、すなわち知識労働におけるすさまじい価値生産性の違いが、公衆の面前にさらされることになった。この問題は、古くは、前世紀の終わり頃、マイクロソフト社のビルゲイツの「優秀なソフトウェアエンジニアの生産性は、普通のソフトウェアエンジニアの100倍以上だ」という発言にまでさかのぼることができる。しかし、現実には、100倍どころではない。仕事内容によっては、並のエンジニアが一生かかってもなしえないような難易度の高い問題を、美しい方法で解決するのが、優秀なエンジニアというものだ。そして、これはエンジニアに限った話ではなく、社会はますます高度化し、難易度の高い問題は、ますます増えていったのである。
そして、何より、知識労働というのは、極端にスケールメリットの効く労働だ。それが端的に表れたのが、前世紀末に登場したgoogleという会社だった。数億人に使われるような、巨大なスケールメリットをもつソフトウェアシステムの場合、たとえ、100倍の年収を払ったとしても、最上級のエンジニアを使って設計・開発した方が、生み出されるトータルの価値の違いを考えれば、圧倒的に安くつく。つまり、年収1000万円のエンジニアより、年収10億円のエンジニアの方が、はるかに安上がりになってしまうのだ。
しかし、これは、エンジニアだけの話だけではない。本質的に、レバレッジの効く、スケールメリットの大きな職業は、すべて同じ問題を抱えている。何千億もの資金を動かすファンドマネージャの給料が桁違いに高いのも、同じはなしだ。年収1000万円で、年利5%で運用できるファンドマネージャより、年収10億円で、年利10%で運用できるファンドマネージャの方が、遙かに安いのである。これは、大型プロジェクトのプロジェクトマネージャでも、会社の経営陣でも、同じ話だ。
しかしながら、四半世紀前の西暦2000年のころまでは、この問題は、藪の中だった。なぜなら、あるプロジェクトが成功したとして、その成功が、誰の、どのような貢献によるものなのか、不透明だったからである。あるプロジェクトが成功すると、そのプロジェクトをさんざん難癖をつけてつぶそうとした人間や、大して関心のなかった人間まで、オレははじめから賛成だった。オレがここで、協力したからこそ、成功したのだと言い出す。また、たいした貢献をしていない人間も、自分が重大な役割を果たしたのだと思いこんでいることも多い。
ところが、ほとんどのコミュニケーションが、メール、IM、TV電話などのネット経由で行われ、ログがとられるようになり、しかもそれが縦横無尽に検索されるようになったことで、藪が取り除かれ、霧が晴れ、すべてが白日の下に晒されることになったのだ。
これにより、社員であれ、取引先であれ、フリーランスの契約社員であれ、使えない人間は、徹底的に排除され、使える人間は、限りなく時価に近い報酬を受け取ることになった。
それだけではない。その時価は、全世界的な需給バランスによって、決定されることになった。このあおりを直に食ったのが、中程度以下のスキルの労働者だった。たとえば、中程度のスキルのプログラマーは、もはや世界中にあふれていた。日本の中級プログラマーは、貧困から抜け出すために、すさまじいバイタリティーでのし上がろうとする途上国のプログラマーと、正面からまともに殴り合うことになった。インドの寝苦しい夜、土壁の家の外で、星空を見上げながら、執念深くシステム設計を練り、頭の中でデバッグし続ける若いエンジニアのすさまじいハングリースピリッツとまともにぶつかることになった日本のエンジニアは、厳しい戦いを強いられることになった。なにしろ、彼らは、自分の妻に、洗濯機やクーラーを買って生活を楽にさせてやるために、必死で働く。年収百万円でも喜んで働く。そして、彼らは、やたらと数が多い。ソフトウェア産業に従事することで、貧困を脱出する人を見て、我先にと、ソフトウェア産業に、人が押し寄せる。必死で勉強する。ネットにさえアクセスできれば、無料の教材は、ネットにあふれている。そして、インドをはじめとする、途上国の政府は、膨大な国家予算をつぎ込んで、安価なPCと回線を、貧しい人々に行き渡るようにした。その方が、一時的に債務がふくらんでも、結局は、将来の税収増につながることを、よく理解していたからだ。それより何より、広域無線LANシステムなどのイノベーションにより、回線コスト自体が、すさまじく安くなっていたし、PCのハードウェアコストも、同様に、すさまじく安くなっていた。
こうして、日本の中級以下のプログラマーは、労働力の質でも、価格でも、量でも、まるで太刀打ちできなくなっていった。
そして、転落していったのは、中級プログラマーだけではない。取り立てて差別化要因を持たない多くの中小企業が、大量に倒産していった。商店街も、飲食街も、気がついたら、多様な店にあふれているようで、実は、どれも大企業の多業態戦略の出店に過ぎなくなっていた。
そして、田舎も格差が広がっていった。従来は、地産地消と言われ、その産地でだけ消費されていた、伝統のうまい干物、漬け物、工芸品、野菜、海産物、酒など、その土地ならではの独自の価値のある産品を提供できる田舎は、ネット化によって、日本中から注文がされるようになり、また、うまい生の酒の風味を損なわずに流通するような流通におけるイノベーションにより、これら価値ある商品は、日本列島の隅々まで行き渡ることになった。一方で、これといった特色もなく、国の農業補助金でなんとか長らえていた農業は、高齢化による、国家財政の急速な悪化で、補助金を打ち切られ、どんどん経営が苦しくなっていった。
そして、大量の中小企業の倒産、商店街の崩壊、企業プロセスの透明化による本来的な意味でのリストラクチャリングによる大量失業により、一時的に街は失業者であふれた。ホームレスであふれた。
しかし、膨大な借金を抱えた政府は、失業者対策を行おうにも、そのための予算がない。そこで、累進課税率を引き上げ、高度知識経済の恩恵を被ることになった高生産性の知識労働者たちから、膨大な税金を徴収することにした。すると、おそれていた副作用が生じた。もともと、ただでさえ、累進性が高く、やたらと高い税金を収めていた日本の高額所得者は、とうとう耐えきれなくなって、我先にと、税金の安い海外で居住を始めたのである。国籍を変えなくても、年の2/3以上を、国外で暮らせば、日本には税金を収めなくてよくなるからだ。そして、職場環境が、徹底的にオンライン化された現代においては、知識労働者は、基本的には、どこの国でも働けるのである。
こうして、累進税率の引き上げは、税収を増やすどころか、逆に大幅な税収減をもたらした。そして、その流れはやむどころか、ますます加速度的になると見た日本政府は、税率をもとに戻したが、時すでに遅し。海外でも、オンラインで十分に仕事ができるということを理解し始めた知識労働者は、もとの税率に戻ったとはいえやはり高額所得者の税率の高い日本へは戻ってこないどころか、その流れは止まらなかったのである。そして、とうとう、日本政府は、苦渋の決断をするに至った。なんと、高額所得者の累進税率を、実質的に下げることにしたのである。それは、所得税の大減税と、消費税の大増税という形で行われた。所得税には累進性はあるが、消費税には累進性はないのだ。
そうして、膨大な借金をかかえたまま、膨大な税収減まで抱え込むことになった日本政府に、もはや失業者対策をする財源など残っていなかった。この結果、またしても予想外なことが起こった。なんと、日本の失業率が、激減したのである。
いったい何が起こったのか?
起こったのは、日本のメキシコ化であった。前世紀末から今世紀初頭にかけて、日本に比べ、遙かに貧しく、生活の厳しい人の多いメキシコの失業率は、日本より遙かに低かった。なぜかというと、失業した人が、生活防衛のために、とにかく、屋台や露店をはじめ、自分で自分を雇用してしまうからだ。メキシコの道路は、そういう露店であふれかえっている。
しかし、日本の場合、すでに、日本中に百円ショップがあふれており、メキシコのように露店を開くわけにはいかない。そこで、日本の失業者たちは、過疎化の進む、山奥の農村へと向かった。
前世紀の末から、今世紀の初頭にかけて、何百年も続いた、日本の山々に散らばる無数の山村が、急速に進む過疎と高齢化で維持できなくなり、残ったわずかな老人たちは都会に住む子供たちの家族に引き取られ、懐かしい故郷の家々も、小学校も、幼い頃遊んだ田畑も、無人になり、放置され、藪に埋もれ、その長い歴史を閉じ、廃墟となっていった。こうしてたくさんの村がたくさんの思い出とともに哀しく消えていった。
ところが、日本の山村の崩壊と消滅が、ある時を境に、急激に少なくなった。都会で失業し、にっちもさっちも行かなくなった失業者たちが、山村を訪れ、自給自足の生活を開始したのだ。
山村では、それほど現金がなくても、暮らしていける。野菜は、自分の庭や家の周りの畑で育てる。山から薪をとってきて、煮炊きをする。タンパク源は、大豆と鶏の卵程度で十分だ。日本人は、そうして、何千年も生きてきたのだから。そもそも、日本人の体は、炭水化物と野菜中心の食生活に適応するように、最適化されている。
もちろん、楽な暮らしではない。自然に囲まれた生活とは、ベジタリアンが思い描くような、理想郷などではない。とにかく、食料の調達、衣服の修繕、畑の世話など、やることはたくさんある。しかし、極度に競争的な全世界的なスケールでの知識経済社会のすさまじいストレスが、山村での暮らしにはない。とくに、知識経済に十分適応しきることができなかった、ごく普通の能力の人々にとって、知識社会は、地獄のようにストレスフルな社会だった。鬱病や自律神経失調症など、精神に変調を来す人も、多かったし、異常に高い自殺率は、低下するどころか、ますますあがっていった。ストレスが原因と言われる、花粉症、喘息、アトピーは、ますます増えていった。だれもかれもが、ストレスに苦しんでいた。
ところが、都会を離れ、山村で自給自足の生活をはじめて半年もたたないうちに、鬱病、花粉症、喘息、アトピーがすっかりなくなる人がよくみられた。年収は、ほとんどないに等しいし、娯楽らしい娯楽もない。ときどき、自分たちでつくったどぶろくやつまみの漬け物や山で釣った魚の干物を持ち寄って、集まって呑んで騒ぐぐらいなものだ。夜は、耳鳴りがするほど静かで、山々のざわめきが聞こえる。電気もなく、松ヤニで作ったろうそくしかないので、早く眠り、早く起きる。しかし新しい村人たちの、表情はなぜか明るい。そんな不思議な生活だ。

ただ、ほとんどの人は、山村での暮らしを始めたわけではない。それは、にっちもさっちも行かなくなった失業者たちに限られていた。やはり、ほとんどの人は、「そこまで落ちる」のはいやだと思いこんでいたし、競争が過熱化するグローバル知識経済社会の中で、なんとか生き抜こうとしていた。もちろん、途上国を含めた、全世界の労働者との競争にさらされ、失業はしないまでも、収入はどんどん下がり、消費税はどんどん上がり、生活はどんどん苦しくなっていった。いままですんでいた部屋の家賃が払えなくなり、より家賃の安い部屋に引っ越す人は増えていった。都会に住みたければ、日当たりが悪く、極端に狭い部屋にすまなければならない。ある程度条件のよい部屋にすみたければ、郊外へ引っ越すしかない。
一方で、極めて生産性の高い部類に属する知識労働者たちは、所得がどんどん増えていった。なぜなら、「できる」知識労働者は、全世界的に見ても、その絶対数が少ないのにもかかわらず、社会と経済のシステムの高度化に伴い、ますます需要が増大していったからだ。また、途上国の「できる」知識労働者も、世界中から引く手あまたで、その年収はすさまじく高くなっており、日本の「できる」労働者たちは、価格競争にさらされるおそれがなかったためだ。
この結果、世界の消費者市場は、高所得者マーケットと低所得者マーケットに、明確に二分された。もちろん、低所得者マーケットの方が、人口ははるかに多い。従って、スケールメリットがとてもきく。しかし、トータルの経済規模は、高所得者マーケットの方が巨大だった。
そして、面白いことに、低所得者マーケットにしろ、高所得者マーケットにしろ、その供給者の中核は、どちらも高度知識労働者たちなのだ。百円ショップや、格安食堂、激安衣料品店の、店舗オペレーションシステムを徹底的に低コストで、効率的に設計するのも、「できる」知識労働者の高度な頭脳のなしえる技だからだ。凡庸な労働者を何万人集めたところで、少数精鋭の高度な知識労働者チームの足下にも及ばないのだ。
そもそも、監視カメラの値段や回線コストが劇的に下がったため、店舗には、無数の監視カメラが備え付けられており、その監視カメラは、海の向こうの、冗談みたいに安い労働者が監視している。さらに、無線ICタグも、劇的に値段が下がってきており、すべての商品が、無線タグで、精密に監視され、コントロールされている。このため、ほとんどの店舗が半ば無人だ。実際には、無人のように見えて、ネットワーク越しに監視されているわけだけれども。もちろん、なにかトラブルがあれば、すぐに警備員や修理要員がかけつけるようなシステムができているし、何しろ、すべてがネットに録画されているのだ。とても悪いことはできない。また、強盗に入ろうにも、ほとんどの店は、いまや電子マネーだ。前世紀のように、レジをこじ開けて現金をつかみ取ろうにも、そもそも現金がないのだ。
そういう、徹底的に無人化され、自動化された、スケールメリット追求型の格安店舗やサービスに比べ、高額所得者向け店舗には、比較的多くの従業員がいた。もちろん、前世紀のように、レジに長蛇の列ができ、従業員が現金を数えるというような、不効率は徹底的に排除されている。そうではなく、高額所得者の所得に比べると、低額所得者の人件費コストが相対的に低下したため、美しい受付嬢や、エレベータガールなどのように、花瓶に美しい花を飾って店舗を美しく飾って客をもてなすのと同じような感覚で人を配置するようになったのだ。
そして、やはり、前世紀末に、アメリカ合衆国で現れ始めた要塞町が、日本でも一般的になった。すなわち、高額所得者とその関係者のみが、立ち入ることのできる高い柵と、厳重な警備システムに守られた、要塞のような街である。その中には、たくさんの道路があるが、すべて私道である。その要塞町の住人のみが、通ることのできる道だ。その中の商店街も、その町の住人のためだけの商店街だし、そのなかにある学校も、その町の住人の子供しか入れない。
ただ、その町の住人のすべてが、高額所得者というわけではない。むしろ、どの要塞町も、単純に頭数から言えば、高額所得者よりも、その町を維持したり、各家庭の雑用をこなすために住み込みで働いている使用人の数の方が多い。所得格差が極端に大きくなったために、前世紀初頭に世界中で一般的だった使用人制度が復活したのだ。
ただ、前世紀初頭と異なるの点として、要塞町の使用人が、膨大な数の監視カメラと、無線タグとバイオメトリクス、そして、ネットワーク経由の警備会社により、徹底的に監視されマネージメントされているという点がある。
また、要塞町は、それぞれ特色があり、同じ価値観を持つ世帯同士で、それぞれの別の要塞町を形成している。最近ネット上で、女性団体にやり玉に挙げられ、非難を受けているのが、独身男性ばかりで形成される要塞町だ。その街では、各世帯に住み込みの使用人のほとんどが若い女性であり、性的サービスが前提とされるケースも多く、それが問題視されていたのだ。低所得者層の女性にしてみれば、狭くて汚くて日当たりの悪い部屋と百円ショップの安い雑貨と食品を食べてこのまま歳をとっていくくらいなら、まだ若くて美しくて自分を高く売れるうちに、高所得の男性に囲われて、要塞町の、清潔で、快適で豊かな暮らしを享受したいという打算があるのだろう。要するに、前世紀初頭の「おめかけさん」の復活である。
さらに言うと、結婚はしないものの、子供ができた場合、高額所得の男性は気前よく認知してくれるし、養育費も、気前よく払ってくれる。そして、優秀な男性の遺伝子を受け継ぎ、高度な教育を受けた子供が、将来高額所得者になってくれれば、自分の老後も安泰である。それは、ある意味、きわめて合理的で賢明な人生戦略であり、ビジョンである。彼女らおめかけさんにしてみれば、フェミニスト団体の主張する女性の尊厳など、くそくらえというところだろう。
そうこうするうち、なんと、長年低下傾向だった日本の出生率が上昇に転じた。ただし、結婚率は、劇的に低下している。もう、何が起こったかは、誰の目にも明らかだった。要するに、実質的な一夫多妻制になったのだ。高額所得者の男性の中から、要塞町の中で、たくさんの女性を囲い、たくさんの子供を生ませるというライフスタイルを持つ人が激増したのだ。


こうして、いまや、発展途上国が、先進国化するだけでなく、日本のような先進国が、発展途上国化することとなった。途上国だけでなく、先進国も、辺鄙な山村には、文明から隔絶された自給自足の農民が暮らしている。先進国において、近代文明の象徴であった男女平等の結婚制度は崩壊し、中世の一夫多妻制に逆行した。産業革命によって、労働者として独立した使用人たちは、またもとの使用人に戻っていった。
こうして、グローバリゼーションは、結果として、先進国と発展途上国の格差を埋めることになった。社会や文化の構造まで含めて、似たような構造に追いやったのだ。
しかし。。。。これは果たして、人類の勝利なのだろうか?はたして、インターネットとグローバリゼーションは、人類を幸福にしたのだろうか?そして、これはいつまで続くのだろうか。また、所得格差が縮まり、近代的な一夫一婦制が復活する時代がやってくることもあるのだろうか?少なくとも今は、その兆候は、まったく見られないのだけれども。