「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し

空気読めについての7人種

「空気を読む」という能力について、以下の7種類の人がいる。

(1)空気の奴隷:自分が空気を読む能力が低いことを自覚しており、自分の思い通りに空気を操ろうとすると怪我するので、空気に媚びへつらって集団に受け入れられようとする人

(2)はずしてる奴:空気を読む能力が低いくせに、無神経な発言をして、みんなの顰蹙を買うやつ

(3)サーファー:空気を読む能力が高く、サーファーが波を乗りこなすように、空気を自在に乗りこなす人

(4)空気の操縦者:空気を読み、乗りこなせるだけでなく、空気を操ったり、支配できる人。サーファーの乗る波を自ら作り出す人。(ケネディーとかヒトラーとか)

(5)ファイター:空気を読む能力が高く、空気自体の中に不健全なものを感じ取り、空気そのものと戦う人(ニーチェとか)

(6)隠遁者:空気を読む能力が高いが、空気に同調するのはいやだし、積極的に空気を乗りこなしたいとも思わないので、集団から距離を置く人。

(7)逃避者:空気を読む能力が低く、空気から逃げて生きる人。

以下、これらについて解説する。

まずそもそも「空気を読む」とはどういう行為なのか?
それは、人々の複雑に絡み合った「利害と感情の構造」を読むということだ。
「リアルタイムでダイナミックに変化している、人々の利害関係と感情関係の構造の状態を瞬時に読み取る」という行為だ。
だから、空気を読めてない人は、感情と利害の絶妙なバランスとハーモニーのある構造を崩し、不協和音をたてるような発言をし、結果として、人の感情を害したり、人の利益を阻害したりしてしまい、嫌われるのだ。

そして、なんのために「空気を読む」のか?つまり、その目的の違いによって、サーファー、空気の操縦者、ファイター、隠遁者の違いが出てくる。

まず、サーファーについて説明する。
ユパさまが「あの子はよく風を読む」と言うとき、「ナウシカは風の奴隷だ」ということを意味しない。
だからと言って、ナウシカは、「風の流れ自体を操縦」しているわけじゃない。
ナウシカは、自分の思い通りに、風の流れ自体の方向を変えられるわけじゃない。
ナウシカは、単に風を乗りこなしているだけだ。
だから、ナウシカは、少なくとも風に対しては、サーフィンをしていることになる。ただし、実際のナウシカのキャラは、(4)空気の操縦者なのだけれども。

また、企業は、「コミュニケーション能力」の高い人材が欲しいと言う。
企業は、「企業の奴隷」が欲しいのだろうか?(1)の空気の奴隷が欲しいのだろうか?

企業は、最低でも、ナウシカのように、風を自在に「乗りこなせる」人、すなわちサーファーを求めている。
そして、それだけでは、「不十分」だと考えている。
風の流れ自体をある程度制御する能力を求めている。
P.F.ドラッカーの言うマネージメントの能力を求めている。
つまり、サーファーよりも、空気の操縦者に近い能力を求めている。船に乗ったクルー全員が、それぞれ船の持ち場を的確に操縦するとき、船は自在に航行できる。そういう、コラボレーション型操縦能力だ。

それは、企業が集団主義的か個人主義的か、という以前の、もっと基本的な話だ。集団主義だろうと、個人主義だろうと、利害と感情の構造を乗りこなせず、操作もできないような、コミュニケーション能力の劣る、空気読めない君は、欲しくないのだ。

ニーチェという例外

ただし、ここで一つの矛盾に突き当たる。
「ニーチェは空気が読めてなかったのか?」という点だ。
人類の歴史において、彼よりも鋭く深く精密に「空気を読んだ」人間は、いまだかつてこの地上には存在しなかった。でも、彼の主張は、ことごとく世の中から拒絶され、ほとんど見向きもされず、最後は狂気の中で死んでいった。

これは、矛盾ではないのか?
そもそも、「空気を読む」とか「コミュニケーションする」のは、社会に受け入れられるためではなかったのか?
もっというと「上手に世渡り」するためのものではなかったのか?

彼は、「世渡り」しようと思えば、それができる「能力」は十分にあったのだと思う。能力がありながら、あえてそれを選ばなかったのだ。彼が選んだのは、時代の空気(Zeitgeist)と真正面から血みどろになって戦うことだった。いや、違うな。そんなしょぼいもんじゃない。数千年にわたって、人類そのものを支配してきた「空気」との死闘に全人生をかけたのだ。そして彼は敗北した。今でも敗北したままだ。*1

そういうふうに、空気そのものと戦うタイプを、ファイターという分類にする。

「空気読め」と言うやつはやなやつだ

で、整理が終わったところで、ここからが本題。

まず、醜悪なのは、(1)空気の奴隷タイプが「空気読め」と権力を振りかざすことである。
彼らの言う、「空気読め」を翻訳すると「おまえも空気の奴隷になれ」である。「奴隷になる方が快適なのに、そういう賢い生き方のできないおまえより、オレの方が優れている」である。
ぺっぺっぺ。ふざけんな、汚らわしい!
唾棄すべき恥知らずである。おまえらのために穴を掘ってやりたくなるわ。もっとも、穴があったらはいりたいなどという羞恥心など持ち合わせてないだろうから、おれが蹴り入れて埋めてやるわ。


一方で、サーファーや空気の操縦者が、「空気読め」と言うのは、別の意味である。
彼らの言う、「空気読め」を翻訳すると、「ぐわははは。オレ様のように空気を読む力のない貴様は、劣った人間なのだ!空気の読めるオレ様は優れた人間なのだ!偉大なのだぁ!」となる。
ようするに、でかくて強いサルが、ぶちのめした小さくて弱いサル(=はずしてる奴)の顔面を踏みつけにして、高らかに雄叫びを上げる、勝利宣言なのである。
ぎょえーーー。なんてやなやつだ。

つまり、「空気読め」なんていうやつは、いずれにしても、やなやつなのだ。

「空気読め攻撃」の被害者が陥りやすい罠

ただ、それよりもさらに深刻な問題を、その「やなやつら」の被害者が引き起こす。
つまり、被害者であるぶちのめされた弱いチビ猿は、自分を踏みにじったでかくて強いサルを恨む。怨恨を持つ。復讐したいと思う。しかし、正面からまともに戦っても、勝てそうにない。そして、『強いサルであるサーファーや空気の操縦者の持つ力は、「政治力」という「汚い」力なのだ。それは、「コミュニケーション能力」などというこぎれいな語感で表現されるべき能力なんかじゃないのだ。』と言ってしまうことがあるのだ。
たとえば、「政治力から分離された「コミュニケーション能力」は机上の空論」という記事に対する以下のブクマコメントである。

Masao_hate もっともなんだけど、それはあくまで「政治力」であって「コミュニケーション能力」じゃないだろって思うんですよ。「うんこ」を「カレー」に無理やり言い換えて、うまいうまい言って食ってるみたいで気持ち悪い。

でも、利害と感情の構造に影響をあたえることのできないコミュニケーション能力って、

「彼はコミュニケーション能力は高いけど、いつも仲間に受け入れられないのよ」
「彼はコミュニケーション能力は高いけど、デートすると女の子を怒らせちゃうのよ」
「彼はコミュニケーション能力は高いけど、プロジェクトメンバーとの関係がうまくいってないのよ。」

ということですよね。
でも「企業はコミュニケーション能力の高い人材を求めている」って言うときの、コミュニケーション能力って、そういう意味で使ってます?
高校生の女の子が、「うちのクラスに、コミュニケーション能力の低い男の子がいてさ」って言うとき、そういう意味で使っているんですかね?


そこに、貧乏人が「金持ちにはろくなやつがいない」というとか、勉強のできないやつが「勉強のできるやつは、人の心が分からない」と言っているのと同じニュアンスが含まれてませんか?
いわゆる、酸っぱいブドウ。キツネが、木の上になっているブドウが欲しいんだけれども、それを取ることができないものだから、「あのブドウは酸っぱいに違いない」って。

「政治力」と呼ぶか「コミュニケーション能力」と呼ぶかは問題の本質ではない

結局は、「政治力」という汚いラベルを貼ろうと、「コミュニケーション能力」というこぎれいなラベルを貼ろうと、「それ」の本質が変わるわけじゃない。それは、複雑に絡み合った「利害と感情の構造」を操る能力なんだと思う。


そして、人間の本質とは、「論理の機械」ではなく、「利害と感情の機械」だと思う。もしすべての人間が、一切の損得を気にかけなくなり、一切の感情をなくしたら、人間のあらゆる行動の理由がなくなる。仕事をする理由も、恋愛をする理由も、人を殺してはいけない理由も、生きる理由すらなくなる。人間世界とは、複雑に絡み合った利害と感情の網の目で形作られたものなのじゃないかと思う。
そこにそのビルが存在し、そういう形になっているのは、それによって得する人間と損する人間とむかつく人間と喜ぶ人間がいるからだ。
あまり高いビルを建てると、景色が悪くなって気分が悪いという人、できるだけ高いビルを建てた方が、儲かるという人、この場所に住みたいという欲求を持つ家族たち、ここに人が引っ越してくれると、客が増えると考えるスーパー、都市計画上、ここにビルがあると都合の良いお役所の人たち。
そういう複雑な利害と感情が織り込まれた結果、それがそうして存在する。都市において人間が目にするほとんどすべての景色は、そうやって形成されたものだ。決して、そこにビルを建てるのが、「論理的に正しい」からではないのだ。人間は、青ざめた正しい論理でできているのではなく、赤く燃え立つダイナミックな喜怒哀楽と損得でできている。

そして、そこにそのビルを建てるのに、もっとも重要な能力は、技術力でも論理的思考能力でもなく、そういう複雑な利害関係と感情関係を調整し、組み立てて、自分のビジョンを現実化する能力だ。
それを、人は、コミュニケーション能力と呼んだり、マネージメント能力と呼んだり、企画能力と言ったり、デザイン能力と言ったり、設計能力と言ったり、リーダーシップと呼んだり、マーケティング能力と言ったり、政治力と言ったりする。
どれも、同じことだ。女の子を口説くのは、女の子に対してマーケティングしているだけだし、社員の心をつかむために何をすべきか、という経営会議の議題は、社員に対するマーケティングプランを組み立てましょうということだ。そして、消費者の心をつかむためのマーケティングプランやデザインについて話している時、実は、消費者の口説き方について話している。すべては同じ、ある一つのことをやっている。
そして、その能力が高い人が、「有能」と言われ、低い人が「無能」と言われているだけの話だ。

「正しいコミュニケーション能力」という幻想

だから、「コミュニケーション能力」がある人は「空気を読め!」なんて言わないで言っている、

本来「コミュニケーション能力」ってのは、「自分とは異なる考えを如何に理解し、その上で自分の考えを相手に伝え、納得させられるか」どうかであるはずだ。

というのは、間違っていると思う。*2
たとえば、なぜ、自分とは異なる考えを理解しなければならないのか?常にそれは正しいのか?絶対的に正しいのか?その理由はどこから生じているのか?。。。。それを徹底的に突き詰めると、その一切の根拠は、感情と利害の構造から生じる以外には、あり得ないということが分かるのだ。
だから、人々の間で複雑に絡み合う感情と利害の構造を読み取り、それを調整し、組み立ててやることでしか、相手は納得しないのだ。
そもそもの間違いは、どこから来ているのか?それは、人間の本質が「論理の機械」であることを前提としていることから来ている。論理的な正しさというのは、利害と感情の構造を組み立てるときの、脇役であって、それを中心に据えてしまうのは、本末転倒意味不明である。家来が殿様の席に、どっかりと腰を下ろしているようなものだ。
論理的に正しければ、相手は納得するのか?そうじゃないだろう?感情と利害の構造をうまく調整することによってのみ、人間は納得するのであり、論理的に正しいから納得するというのは、あくまで、感情と利害の調整が終わったあとの話である。完全に優先順位が間違っている。土台を作らずに家を建てようとしているようなものだ。論理は、あくまで、利害と感情の構造を組み立てるための道具でしかないのだ。要するに、人間が生きる理由、人間が働く理由、いや、人間の利害と感情に関わる一切の行為の理由は、論理的な正しさなどからは生じない。一切は、利害と感情の構造から生じているのである

それはすべての人の人生の、あらゆる局面において必要な能力だ

だから、その利害と感情の操作能力、すなわち空気を読み、空気に乗り、空気を操る能力は、リーダーばかりではなくほとんどあらゆる人間にとって、本質的に「必要」なものだ。それは、プライベートでも仕事でも、デートでも、親子関係でも、営業でも、デザインでも、企画でも、ソフトウェア開発でも必要な能力だ。それができないと、どのような局面においても、「空気読めてない」と言われてしまうのである。

なので、利害と感情の操作能力は、自分を確立し、他者と関係を結び、自分の居場所を作り、世の中を動かし、自分を花開かせ、充実した人生を送るための、不可欠の能力であり、それを否定してしまったら、人間と社会にとって意味のあることなんて、何もなしえない。充実した人生なんて、望むべくもない。

人間にとって不可欠の能力を汚いもののように言う心理構造

にもかかわらず、利害と感情の操作能力を汚い能力として貶めるのは、なぜなのか?
それは、シマウマの価値観なのだと思う。
シマウマにとって、ライオンは、悪そのものである。シマウマの離れた目から見ると、ライオンは悪魔の化身のように、醜悪に感じられる。*3
なぜなら、ライオンは、シマウマを蹂躙し、殺して食うからである。シマウマにとってみれば、理不尽きわまりない。そして、ライオンの持つどう猛な歯と筋力は、悪なのである。だから、利害と感情の構造を操る「政治力」は悪であり、汚物なのだ。なぜ、歯と筋力が悪になったのかというと、シマウマの歯と筋力が、ライオンの歯と筋力よりも劣っているからだ。
しかし、ライオンにしてみれば、歯と筋力は、善である。なぜなら、自分の歯と筋力が優れているからだ。ライオンの価値基準からすれば、優れたものが善であり、劣ったものは悪である。
しかし、ここで一歩引いて考えてみよう。それらは、単に立場の相違から生じる、意見の違いに過ぎないのか?
そこで、シマウマとかライオンをいったん忘れて、生物一般について考えてみる。
そうすると、歯が強く筋力が強靱ということは、一般に、生物にとって「良い」ことであることが分かる。それ自体は、ぜんぜんネガティブではなく、ポジティブなことである。なぜなら、それは生きて、生命を謳歌するのに、プラスとなる要因だからだ。つまり、足が速い、胃が丈夫だ、頭がよい、容姿が美しい、より重いものを持てる、資源を豊富に持つ、というのと同じような、生命にとってのポジティブ要因なのだ。それらは本来は、少ないより多い方がよいものなのだ。

そう考えると、ライオンの価値観というのは、生命を謳歌するためのポジティブ要因を善とする価値観であり、シマウマの価値観というのは、生命を謳歌するためのポジティブ要因を、悪だと考える価値観だということが分かる。

でも、本当は、シマウマにしても、歯は弱いより強い方がいいはずなのである。筋力は弱いよりも強い方がいいはずなのである。なぜなら、シマウマも生命だから。にもかかわらず、生命を貶め、衰弱させるような価値観を持つというのは、とても不幸なことではないだろうか。

命の輝き、生命の本質的なポジティブ要因を汚す代償

そして、人間はシマウマではない。
人間は変わりうる。
貧乏人が、金を持つこと自体を否定しなければ、そのうち暮らしが豊かになることもあるかもしれない。しかし、「金持ちなんて、ろくなやつはいない」と言い続けている限り、貧乏人は、いつまでも貧乏人のままなのである。
知恵のない人が、賢いこと自体を否定しなければ、そのうち賢くなるかもしれない。しかし、「頭のいいやつにろくなやつはいない」と言い続けているかぎり、いつまでたっても、愚かなままだ。
自分が、生命にとってのあるポジティブ要因(健康だ、強い、美しい、賢い、金持ち、などなど)について劣っていたからといって、その要因自体を否定してしまうと、いつまでも自分はネガティブ状態から抜け出せない。つまり、現実と格闘し、現実を変える力を失うのである。
なぜなら、生命のポジティブ要因自体を否定するというのは、自分を踏みにじったサルに対する復讐を、現実においてではなく、空想の世界で行う行為だからだ。自分のことを鼻にも引っかけない小生意気なアイドルを、空想の世界でレイプし、蹂躙する行為だからだ。それは、麻薬だ。脳内だけで満足し、現実の自分をますます惨めにさせるような行為だ。*4
だから、少なくとも、生命にとっての本質的なポジティブ要因、生命を、人生を謳歌し、自分の思い通りに生きるために不可欠な能力である、「感情と利害を操作する能力」を否定し、汚いもののように言うのは、自分の人生を台無しにしかねない、きわめて危険な行為なのじゃなかと思うわけです。

*1:しかし、彼の放った恐ろしく巨大な質量を持つ矢は、時空を越え、彼の死後、世界の臓腑に深々と突き刺さることになる。巨人は恐ろしく鈍くしぶといから、巨人の膝が砕け、尻餅をつくまでには、まだ一世紀以上の時が必要かもしれないけれど。

*2:言葉の定義なんて、問題としちゃいない。これは、単なる言葉の定義論ではない。

*3:悪魔に角としっぽと牙があるのは、偶然ではないのかも。それは、捕食者のイメージにダブっている。人間をエサとする生物の象徴だ。

*4:宗教は麻薬だ、と言ったのは、カールマルクスだったか。