「人間の少女には心がある」のと同じ意味で「二次元のアニメ美少女にも心がある」かもしれないよ


あなたの気持ちは、痛いほどよく分かります。」
と言いながら、
とんでもなく見当違いの同情
をしてくれる方がいらっしゃいます。


その方は、オイラがどのように傷つき、怒り、憎み、
恐れ、深い悲しみにうちふるえているかを、せつせつと語るんですが、
一から十までピントがズレまくっていたりします。


オレは確かに苦しんでいるが、
そんな激しくどうでもいいこと
苦しんでるわけじゃないんだよ。


その人が「痛いほどよく分かる」というオレの喜怒哀楽は、
フィクションであって、実在するオレの喜怒哀楽とは全くの別物なんですよ。


唯一ノンフィクションだと言い切れるのは自分の感情やクオリアだけです。
自分は「苦しんでいる自分」を直接感じることができる。
自分は、自分の感覚の中で起こっていることと同じことが
他人の中でも起こっているに違いないと「想像」しているだけです。
自分は、他人の中で起こっている感情やクオリアを直接感じているわけじゃない。


この意味においては、
いかなる他人の感情も、想像の産物=フィクションである可能性を否定できません。
「目の前の人間の中でも、自分の中で起こっているのと同じような
感情反応が起こっているに違いない」というふうに、
他人を「擬人化」しているだけなんです。


もっと正確に言うと、これは「擬人化」というより「擬私化」です。
他人の中でも、自分の中の感情反応と同じようなことが起こっているに違いないと、「私」に擬して理解しているからです。*1


人間の中で起こっている分子化学的な反応プロセスを無限に精密に調べても、
どこにも感情やクオリアそのものは見つからない。
それを詳しく調べれば調べるほど、人間というのは、タンパク質等の分子を組み立てて作り上げた
極めて精密なバイオロボットでしかなく、
その中で起こっているのは、単なる分子的電気的連鎖反応プロセスに過ぎず、
クオリアも感情もない哲学的ゾンビしか見えてこない。


この意味で、木や岩に心が宿っていると信じているパプアニューギニアの部族の人々を、
単なる迷信と切って捨てることはできません。


パプアニューギニアの部族の人々が
「その大木には心がある」という信仰と、
我々現代日本人が
「自分以外の人間にも心がある」という信仰は、
本質的に同じもの
だからです。


もし、他人に感情やクオリアがあるということを認めるなら、
森や湖に感情やクオリアがあるということだって、認めなければなりません。*2


未開の部族の人々が森や湖を擬人化するように、われわれは他人を擬人化しているのですから。


そして、この擬人化、いや「擬私化」は、木や石や仏像や人間のように、リアルな実体のあるものばかりに対してだけ行われるわけではありません。
目に見えぬ精霊にも、哀しみ苦しみや恨みや憎しみがあると信じる人々は、この惑星上にはまだ何億人もいます。
もしかしたら、彼らの方が多数派かもしれないくらいです。


そして、その目に見えぬ精霊の感情やクオリアを信じるなら、
二次元美少女の感情やクオリアを信じるのも同じことです。


自分の感情とクオリアだけが唯一のノンフィクションなのであって、
それ以外の全ての感情とクオリアは想像の産物=フィクションでしかないのだから、
二次元美少女の感情とクオリアも、想像の産物でしかないという点では、等価でしょう。


そもそもすべての他人が、感情もクオリアも持たない哲学的ゾンビである可能性は否定できないという観点からは、三次元の少女が暴行されて苦しんだかどうかは、原理的に確かめようがありません。それは精密なバイオロボットの分子的反応の集積にすぎないという可能性が否定できないからです。単にわれわれが、そう感じ、そう信じたに過ぎないとしか言いようがなくなってしまいます。


しかしながら、われわれの生活している社会では、そんな主張は全く通りません。
法的にも、倫理的にも、人間の感情的にも、三次元の少女への暴行は重大な犯罪であり、二次元美少女への暴行は、さしたる重大事ではありません。
なぜそうなっているかというと、その法体系や倫理体系を造り、支持している人間たちが、「他人は哲学的ゾンビではない」という根拠のない信仰、そして、「二次元美少女には感情やクオリアはない」という根拠のない信仰を抱いているからです。


それらはどちらも「信仰」でしかありません。
だから、もし、二次元美少女の感情やクオリアの実在を「信仰」しているアニオタがいたとしたとしても、それは単なる「信仰」の違いでしかないとしか言えません。


ここで、アニメはフィクションであり、いくらでも物語を書き換えられるから、現実の少女とは別物だ、というロジックは通用しないように思います。


第一に、たとえ物語を書き換えたとしても、あるアニオタが感情とクオリアの実在を信じた二次元美少女が住んでいるのは「そのアニオタの記憶の中に存在する元の物語」だから、原作者がいくらストーリーを書き換えようが、「そのアニオタの記憶の中に存在する元の物語」が書き換わるわけではありません。


第二に、そもそも他人が感情もクオリアも持たない哲学的ゾンビであるのなら、三次元の少女は感情を持たない単なるバイオロボットに過ぎないことになるので、二次元美少女への暴行が許されるのと同じ意味で、三次元の少女への暴行も許されるという話になってしまいます。


しかし、幸いにも、他人の感情やクオリアの実在を「信仰」し、二次元美少女の感情やクオリアの実在を否定する人間は、現代日本社会では圧倒的多数派であり、しかも社会のあらゆる権力を握っています。


だから、われわれは数の暴力と圧倒的な権力によって、少数派の「異教徒」の信仰を全面否定し、われわれの「信仰」を唯一の絶対正義として少数派に押しつけることができます。


これこそが、我々の住む社会において、三次元の少女への暴行は絶対的に許されず、二次元美少女への暴行*3が許されている理由なのではないでしょうか。*4



これが、現代日本においては、たとえ二次元美少女への暴行が法律によって処罰されることがあったとしても、あくまでそれは、その二次元美少女という「実在の感情やクオリアを持った存在」が被害を受けたためではなく、公序良俗に反するとか、あくまで三次元の実在する人間への悪影響から法律によって規制されるに過ぎないという状態が存在している理由なのではないでしょうか。

*1:もちろん、この辺の元ネタは大森さんなのですが、そもそもオイラは大森さんが何を言いたかったか正確に理解していると自信を持って言えるほど大森さんの本を読み込んでないし、下手に言及すると「大森さんが言いたかったのはそんなことではない!」という話になって、この記事で扱いたいネタと別のところが盛り上がっちゃってノイズになりますので、この記事はあくまで別ネタとして読んでください。正確な大森哲学の解釈については、哲学研究の専門家の方がお好きに議論していただければいいのではないかな。

*2:人間に感情やクオリアが発生するときに測定される、脳神経の電気的分子的な諸現象が、森や湖では起こっていないではないか、という議論については、物理的な諸現象とシンクロしない感情やクオリアが存在しないとは言えない、と言う点を考えるべきだろう。

*3:たとえば、その二次元美少女の人格を持つ人工知能プログラムを作って、それをゲームとして実装する。その美少女と等身大のリアルな人形をインタフェースに使って、その少女が自分の言うことに絶対服従するようになるまでぶん殴り続けるゲームとか。その人工知能の少女が自分に逆らうたびに殴り、その少女が悲鳴を上げる。だんだん、その少女が怯えるようになってきて、最後には自分の言うことに絶対服従するようになる、という吐き気がするような悪趣味なゲームだって、想定できる。

*4:追記:別な言い方をすれば、「人権」もしくはそれに類した権利や尊重は、「対象物に心が存在するかどうか」という客観的事実ではなく、「多数派が対象物に心が存在すると思うかどうか」という共有化された主観(http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060905/1157412736)に大きく影響を受けているという構造があるということです。(なので、『「人権の根拠は心(人格)である」という暗黙の前提を置いている』というブクマコメは誤読。むしろ、そのような暗黙の前提をおくことはできない、ということを書いているテキスト。) ただし、それはあくまでグラデーションであって、たとえば動物に心があると考える人は多いでしょうが、動物を虐待しても、人間を虐待するのと同じくらい罪であるとは(多数派の)人々は考えません。しかし、動物を虐待することは道徳的に悪だと考える人間が多数派です。