自由市場経済が破綻するとき

NHK特集:21世紀の潮流 ラテンアメリカの挑戦より

「アメリカの裏庭」と言われた中南米、ラテンアメリカでいま続々と左派政権が誕生し、アメリカが主導する南北アメリカの政治・経済の統合にノーを突きつけ始めた。


自由市場経済ーーー自由競争社会の導入の結果、ラテンアメリカにもたらされたもの。
それは、競争の勝者が富を独占し、膨大な数の人々が貧困の中であえぐ、最悪の格差社会だった。


たしかに、民営化、規制緩和、市場の開放による自由競争は、効率を上げ、トータルではより多くの富を生み出した。
しかし、生み出された富が、貧しい者たちの手に渡ることはなかったのだ。


自由競争社会を推進する人々は言う。

曰く、「自由市場経済が富を生み出し、多くの貧困を解決してきたというのが、ここ数世紀の流れだった。」
曰く、「今日では、貧乏人ですらかつての貴族のような暮らしをしている。」
曰く、「かつては金持ちではなければ手に入らなかったものを、そうでない人でも買えるようにした人々が金持ちになったのだ。(404 Blog Not Found)」


しかし、ラテンアメリカが出した結論は、自由市場経済への幻想を捨て去ることだった。


こうしてつぎつぎに誕生したラテンアメリカの左派政権は、利権を独占する欧米の企業を国が摂取するなどして財源を確保しつつ、貧困層の救済対策に乗り出した。


南北アメリカを一つの自由市場経済圏にしようと画策するアメリカが、どんなに自由市場経済のすばらしさを訴えても、その叫びには、もはや、かつての説得力はない。アメリカの南北アメリカ自由経済圏構想は、こうして頓挫した。


もちろん、資本主義-自由市場経済が、多くの人々を貧困から救い出してきたケースも無数にある。


結局のところ、自由市場経済システムそれ自体は、善でも悪でもない。それは、単なる道具だということだ。
それは、どんな時代のどんな社会にも、どんな風にでも使える万能の道具などではない。
使い方を誤れば、社会を荒廃させ、多くの人々の人生を台無しにする。


しかし、多くの金持ちは、このことに鈍感である。
なぜなら、ラテンアメリカのケースからもわかるように、資本主義という道具の使い方を誤ったときに傷つくのは、多くの場合一般人や貧乏人であって、金持ちではないからだ。
むき出しの自由競争社会の暴走で引き裂かれて血の海の中でのたうち回るのは、たいていが一般人か貧乏人なのだ。
むしろ、むき出しの自由競争社会は、金持ちにますます富を集中させる。
金持ちは、金持ちであるために、自由競争経済下で、金持ちで居続けるための知識と情報と人脈を持っている。
自分の子供を金持ちにするための教育投資を行える。
自由市場経済下でなら、自分の財産を賢く運用する方法など、かれらはいくらでも見つけてくる。


だから、金持ちたちは、自由競争を肯定したがる。
404 Blog Not Found : No Ocean is Blue

だから少なくとも、「競争」というのは「生」にとって欠かせないのだ。


そして、金持ちたちは、腕利きの弁護士のように、競争原理に基づく資本主義経済を擁護するのに都合のよい証拠を列挙する。


もちろん、それらは、どれもウソではない。
弁護士が、ウソをつかないのと同じことだ。
しかし、腕利きの弁護士は、そうやって証拠と理屈を組み立てて、凶悪な犯罪を引き起こした被告の無罪を勝ち取ることもあるのだ。


たとえば、次の理屈には、欺瞞が隠されている。
強欲2.0

実のところ、今日では、気前がよくないと金持ちになれないのだ。


たしかに、これはウソではない。
金持ちはほんとうに気前がいい。


しかし、彼らが、ビジネスを創造し、素敵なサービスを貧乏人でも手に入れられるようにするのは、それが彼らをより金持ちにする限りにおいてであって、その素敵なサービスを購入する金すら持っていない貧乏人には、彼らは、富を分け与えることはない。いや、むしろ、積極的に無視する。


彼らが気前がよいのは、自分たちをより金持ちにしてくれる一般人や貧乏人に対してだけなのだ。


結局のところ、富を生み出すのは、自由競争と言うより、少なくとも直接的には、マーケティングであり戦略でありマネージメントでありイノベーションでありビジョンなのだ。それらはどれも、営利企業だけでなく、NGOや政府を含む、あらゆる組織に必要なものだ。


そして、ブラジルにおいて、エタノール産業を立ち上げ、膨大な数の貧困層を吸収する雇用を生み出したのは、自由競争が生み出した営利企業ではなく、貧困を解決するための戦略を立て、イノベーションを引き起こし、ビジョンを構築し、その全体をマネージメントしたブラジル政府だったのだ。


マネージメントというのは、ようは、目的を明確にし、その目的を達成するための戦略を作り、その戦略を実行するための構造を作り出し、イノベーションを計画的に引き起こすことだ。マネージメントとは、目的に沿って全てを構造化することなのだ。
ブラジル政府がやったのは、貧困層の救済、ということに、目的を定め、その目的を達成するために、貧困層を吸収する雇用を生み出すビジネスを立ち上げ、そのために必要な市場調査を行い、需給バランスを将来にわたって見積もり、そのプロジェクトのための経営資源を確保し、人材を配置し、計画を実行したことだ。


もちろん、金持ちたちの大好きな自由競争によって、同様のことがもたらされたこともある。しかし、ブラジルのように、もたらされずに、貧困が放置される結果になることもあったのだ。

すなわち、金持ちは、結果として貧乏人を救済することもあるが、それは、保障の限りではないということなのだ。
なぜなら、金持ちの目的が、貧乏人を救済することではなく、金持ちがさらに金持ちになることでしかないからだ。*1


結局のところ、金持ちの目的は、国家(国民)の目的と異なるということがキモなのだ*2

金持ちたちも、国家も、営利企業も、NGOも、すべてマネージメントを行う。すなわち、目的を明確にし、その目的に沿って、全ての戦略と組織を構造化していく。
しかし、全ての構造化の根っこにある「目的」が、金持ちたちと国家(国民)では、異なるのだ。


そもそも、自由競争が正当化されるのは、「自由市場経済において、私欲を追求しようとすると、結局、よりよい商品を、より安く、より多くの人に提供するしかないので、結果として、最大多数の最大幸福が実現される」という理屈からだ。利己的な目的のために行動しても、結果として社会全体としては利他的な目的が達成されるという理屈からだ。自由市場経済とは、利己性の欲望という、「人類が持つもっとも巨大なエネルギー」を燃料にして、利他的結果を生産するという、人類が発明したもっとも優れたエンジンなわけだ。


このとてつもなく優れたエンジンに代わるものは、人類はいまだに手にしていない。このエンジンが本格稼働してから、たかだか200年ほどの間に生み出した富の総量は、それ以前に人類が生み出した富の総量を上回るという試算もあるほどだ。だから、このエンジンの使用自体をいくら批判したところで、いちどその果実を味わった人類が、その使用をやめられるかというと、それは少しも現実的ではないし、また、やめるべきでもない。このエンジンのおかげで、利己性の欲望は、もはや単に汚いものなのではなく、利他性を実現するための、よりクリーンなエネルギーとなり、人々は、これのおかげで、自分のなかの利己性の欲望を積極的に肯定し、自分を解放して生きることができるようになったのだから。この装置のすばらしさは、それが生み出す富よりもむしろ、「人々が、自分の中からあふれ出てくる気持ちを素直に肯定して生きられるようにした」ということにある。自分を肯定して生きられることほどすばらしいことはない。


しかし、市場原理は、任せっきりにしておけば、自動的に全ての人を幸せにしてくれるほど、インテリジェントな幸せ製造装置なんかではない。このモンスター級の出力を誇るエンジンは、うっかりすると、ほんもののモンスターになってしまうのだ。


たしかに、それは、使い方によっては、強力な幸せ製造装置として、十分に機能しうるが、その装置の運営には、注意深いマネージメントを必要とするというのは、ブラジルの例からも明らかだろう。


金持ちが自由競争や市場原理を擁護するような理屈をこねるとき、この部分でインチキをしていないかどうかを十分に注意しながら聞いた方がいいだろう。

*1:もちろん、十分に金持ちになったあと、慈善事業に力を尽くす金持ちもいる。しかし、金持ち全体から見ると、そういう金持ちは少数派でしかないのだ。

*2:追記:文脈から明らかなように、ここで「国家」と言っているのは、国民全体の意思の総体というほどの意味。金持ちも貧乏人も含め、できるだけ多くの人々がそこそこ納得のいく社会を実現することを目的とする政治主体というほどの意味。従って国家の目的とは、おおむね最大多数の最大幸福あたりにおちつくはずだ。「国家」と言うより、「社会」とか「人々」とか「国民」という言葉の方が、適切かも知れない。現実の国家としては、酷い独裁政権や、官僚に牛耳られて国民そっちのけの政治をしているところもある。そういう国家は、国家の本来の目的から外れてしまっている。「国家の目的」というより、「国家の本来の目的」という表現の方が適切かも知れない。また、社会主義や国家主義がすばらしいという意味でもない。また、営利企業よりも国家が経済を運営するほうが良い結果をもたらすなどということでもない。結論にもあるとおり、市場経済という装置を運営するときは、そういう「国家の本来の目的」を根っこにして、全体を構造化ーーーすなわち、マネージメントをすべきだ、ということ。また、ここでは、国を単位に考え、国民という表現を使ったが、もっと広い単位でとらえて、「人々」というのでも、基本は同じ。それが国単位であるべきかどうは、この記事とは別の話題だ。