「人は必ず死ぬ」はどこまで本当か?


たとえば、id:finalvent氏、中島義道氏、そして日本における最も偉大な哲学者の一人である大森荘蔵氏などは、「自分がいつか死ぬこと」という、ごく当たり前のことに対して、「発狂しそうになるほどの恐怖」を感じている(いた)ようです。


彼らは、いずれも、死にまつわる膨大な思索を重ねています。
それほどに、死は、彼らにとって重大な問題なのです。


しかし、不思議なことに、彼らが、「死を避けるための具体的な方法」を検討した形跡はあまり見られません。
そんなに死ぬのがいやなら、なぜそれを避けるための「具体的な方法」を、検討してみないのでしょうか?


人間の老化とは、究極的には人体を構成する細胞の老化です。
細胞とは、DNA、RNAアミノ酸等の分子を組み立てて作った分子マシーンであり、その分子構造が、少しずつ破損したり、歪んだり、老廃物がたまったりして劣化いくのが、老化です。*1


そして、このまま人類が、ガンや痴呆の治療法や予防法の開発を続ければ、その副産物として、やがては老化も起きなくなってしまいます。


なぜなら、ガンや痴呆も、老化と同様、細胞の分子構造の破損の蓄積が引き起こす現象であり、それを根本的に直すには、細胞内の分子構造の劣化を食い止めたり、壊れた分子構造を補修するしかなくなるからです。


自然状態では、細胞内の、さまざまな分子マシーン、たとえば、細胞膜とか、ミトコンドリアとか、ゴルジ体とか、小胞体とか、核とか、そのなかのDNAとかなんとかは、活性酸素や通常の細胞活動などによって、常に破損し続けており、細胞の中には、その破損を補修するための分子機構がすでに存在しますが、補修コスト等の関係により、完全な補修は行われず、一番寿命の長い神経細胞ですら、せいぜい100年程度しか持ちません。*2


ここで、たとえば、ウイルスに、特定の遺伝子を運ばせて、細胞の分子的メカニズムを操作するという方法があります。


もともと、ウイルスというのは、細胞膜の表面にとりついて、そこから、DNAもしくはRNAを細胞内に注入します。そして、その注入されたDNAやRNAによって特定の並びのアミノ酸配列が組み立てられ、それが自己組織化によって自動的に折りたたまれて特定の作用をするタンパク質となって機能を発揮し、細胞の分子的メカニズムをハックして、細胞の分子的構造をウイルス自身の分身の生産工場に改造してしまうことで、増殖していくという、生き物なんだか単なる分子マシーンなんだかよくわからない存在です。


この、ウイルスのなかのDNAやRNAを人間が書き換えることにより、ウイルスにDNAやRNAを細胞内に運ばせ、それによって、生きている人間の細胞の遺伝子を書き換えることで、遺伝病を治療してしまおうという試みも、行われていたりします*3


たとえば、これと同じような原理で、細胞内の分子構造を補修する分子マシンをコーディングしたDNAやRNAをウイルスに詰め込んで、そのウイルスを人間の全細胞に感染させれば、細胞は、より高度な自己の修復機能を獲得し、やがては、全ての細胞を、子供の細胞のように新品同様の細胞にしてしまうことができるかもしれません。要するに、若返ってしまうわけです。


とはいえ、これは、あくまで、理屈の上の話にすぎず、現実には、人間が意図したとおりの機能を持つ分子を生成するDNAやRNAをプログラミングする試みは、ごく最近はじまったばかりです。
現在はまだ、笑っちゃうほど単純な構造のタンパク質分子を作ることにようやく成功したということを、いかにも画期的な出来事であるかのように書き立てるプレスリリースがようやく去年発表された程度でしかありません。
この辺のテクノロジーについては、先日、サイエンスゼロでも、真鍋かおりさんがレポートしてました。


もちろん、科学者の中には、近年の科学が加速度的に進展していることなどを理由に、20年程度で、不老が実現すると考えている人もいるようですが、そういう科学者は異端であり、主流派の科学者たちは、その実現はもっとずっと先だという見通しを持っているようです。


そのため、年取って死ぬのがいやな人は、細胞修復テクノロジーが十分に発達するまで、人体を凍結保存して待っていればいいじゃないか、という考え方が出てきました。(液体窒素の中とかに)


これには、技術的には、臓器バンクのために開発されているのと同じテクノロジーを使います。
臓器を凍結保存しておくことで、臓器を遠くへ輸送したり、一時的に保存しておくなどを可能にする技術です。


もちろん、単にそのまま臓器を凍らせると、臓器は死んでしまいます。
「凍る」というのは、要するに、分子の動きがすごくゆっくりになり、ほとんど動かなくなることです。温度が低いというのは、分子の動きがゆっくりだと言うことですから。
そして、水の分子は、冷やされてその動きがスローダウンしていくときに、互いに寄り集まり、結晶を作ります。そして、細胞内で、水の分子が結晶を作るときに、その結晶が細胞内の他の分子構造を圧迫し、破壊してしまうのです。


これを防ぐため、臓器を凍らせる前に、細胞液をグリセリンなどを溶かした水溶液と交換します。グリセリンが混じっていると、水の分子は、冷やされてスローダウンするときも、集まって結晶を作ったりせず、その場所で活動をスローダウンしていくのです。これにより、細胞内の分子的な微細構造をきれいに保存することができます。


なぜ、その程度のことに、高度な技術開発が必要なのかというと、単純に臓器の組織液とグリセリン水溶液などの不凍液を交換すると、その不凍液自体が、細胞の分子構造に損傷を与えてしまうので、溶液を交換するときの温度や、濃度を調整したり、他の化学物質を混ぜるなど、いろんな工夫が必要だからですね。


ちなみに、現時点での技術レベルは、ようやく腎臓を凍結保存し、解凍しても機能することが確かめられたという程度のレベルのようです。


しかし、この技術がこのままどんどん発達していき、肝臓や心臓など、他の臓器も保存できるようになっていくと、やがては、体中の全ての臓器を冷凍保存できるようになります。ということは、原理的には、体全身を冷凍保存できるようになるはずです。
これは、コールドスリープ(凍眠)が可能になることを意味します。


そして、細胞の分子構造を補修する技術に比べると、全身冷凍技術は、はるかに容易な技術であり、それこそ、20〜30年のうちに完成する可能性は十分にあります。
われわれの多くが生きているうちに、手の届く技術になる可能性が十分に考えられるのです。


そうすると、たとえば、20年後に、この技術で全身を冷凍しておいて、細胞の分子構造修復技術の完成した100〜300年後に解凍してもらえば、少なくとも、老化で死ぬことはなくなります。
それこそ、細胞レベルで20歳に若返って、1000年でも10万年でも生きられるかも知れません。
また、仮に、凍結保存技術がまだ未成熟で、細胞の微細構造を少々傷つけてしまっていたとしても、それも細胞の分子構造の修復技術によって、修復できるでしょう。


もちろん、凍結保存されている100〜300年後の間に、全面核戦争や隕石衝突や謎のウイルスで人類が滅亡しているかもしれません。
あるいは単に凍結保存している施設が火事になったりして、液体窒素に浮かんでいるー192度の死体が、+192度にボイルされて食べ頃になってしまう可能性だって十分にあるでしょう。
あるいは、200年後には、不老テクノロジーのせいで、人口爆発が起こっており、ただでさえ余裕がないのに、わざわざ凍結されている人を蘇生して、さらに人口を増やして事態を悪化させるようなことなどとてもする気にならないかもしれません。


しかし、一方で、300年後の社会状況を、現在の物差しで予測するのは、現在のインターネット社会を江戸時代の人間が予測するようなもので、悲観的な予測も、楽観的な予測も、どちらも同じくらいあてになりません。
たとえば、200年後には、細胞の分子構造を自在に修正することにより、とてつもなく生産性の高い作物が作られ、食糧問題など、とっくに解決されていたり、子供を産むこと自体が厳しく制限されており、それほど酷い人口爆発になってはいないかも知れません。


すなわち、この人体の凍結保存が成功する確率が高いか低いかは、われわれには予測不可能です。
ただ一つ言えることは、いかに悲観的な予測を並べ立てたところで、「人は必ず死ぬ」ということの証明にはならないということです。


しかし、いくら200年後に復活し、分子レベルの抗老化処置を受けて、いくら老化しなくなったと言っても、10万年のうちに、一度も死亡事故にあわないということは、確率の問題としてまずありそうになく、実際問題としては、不死というのは無理のような気もします。


一方で、分子レベルの細胞操作技術が発達したことによりほとんどの病気が克服されてしまい、主な死因が事故死になっているような未来社会においては、事故死の確率を極限まで低くしていくような社会システムになっている可能性もあり、その場合、死ぬ確率がごくわずかでもある作業は、すべてリモートコントロールされたロボットを通じて行うようになっているかも知れません。


つまり、現在の死亡事故の確率から、300年後の社会での事故死の確率を推定することはできず、その辺は予測不可能なのです。案外に高いかも知れないし、とてつもなく低いかも知れません。そうすると、10万年生きるのは不可能かどうかは、現時点では、やはり判定不可能となるのです。


そして、われわれの常識では計測不可能なほどの、長い長い時の流れの中で、やがて、宇宙空間の中の、極限まで安定な空間に超巨大なスペースコロニーを作り、そこで、完全に死のない世界を作り上げる可能性だって、ないとは言えません。
そこまでくると、われわれの常識では、ほとんどあらゆることがきわめて予測困難になり、その可能性が「ない」と言えないどころか、「極めて低い」とすら言えません。縄文人の常識で、インターネット社会おいてYouTubeのようなビジネスモデルが成功するかどうかを判定するようなものだからです。


しかし、そうはいっても、ビッグバンではじまったこの宇宙は、いつかビッグクランチを迎えて、収縮して崩壊するか、あるいは、このまま膨張し続け、1兆年先の未来に、全宇宙が熱的死を迎えます。
そうなると、原理的に、あらゆる生命は存在不可能なわけで、ということは、完全な不死というのは、原理的にありえないはずだ、という考え方もあります。


しかし、あらゆる宇宙モデルは、その時代の観測精度に依存しており、今後の観測技術の発展で、ビッグバン宇宙モデルが否定されてしまう可能性もあります。


たとえば、昔は、太陽系外の天体の視差の観測が不可能であったため、星は、天球に張り付いたものだという、天動説モデルでも十分に説得力がありました。
また、そもそも、ごく最近、それこそ、1925年ころまでは、われわれのいる天の川銀河こそが宇宙そのものであり、マゼラン星雲は、われわれの銀河の中にある天体だと思われていたのです。宇宙は、いまよりもはるかに狭いところだと信じられていたのです。


また、赤方偏移宇宙背景放射などの、現在得られている観測事実を、矛盾無く説明できるのは、唯一、ビッグバン理論だけだ、というわけでもありません。
たとえば、準定常宇宙論でも、説明に矛盾はおきません。


ビッグバン理論は、宇宙の始まりに、宇宙の全ての物質のもとがまとめて生成されたというモデルです。


一方で、準定常宇宙論では、宇宙の膨張に伴い、1年間に1立方キロメートルあたりおよそ水素原子1個程度という非常に小さな割合で物質を生み出す程度の、小さなビッグバンが起こり続けて、膨張で引き延ばされた隙間を埋めているというモデルです。


結局のところ、どちらの宇宙モデルも、どこかの時点で無から有を生み出すことなしに、現在の観測事実を説明することができないわけですが、ビッグバンの方は、最初に一括ですべての在庫を発注して、それを売っていくのに対し、準定常宇宙モデルでは、宇宙の膨張に従い、少しずつ、オンデマンドで発注するわけですね。


そして、準定常宇宙モデルでは、この宇宙には、はじめもなければ、終わりもありません。
この宇宙は、無限の昔より膨張を続けており、今後も永遠に膨張を続けていくモデルなわけです。


人類が過去何度か経験してきたように、今後予想外の観測データがどんどんでてきて、ビッグバン理論では全てを矛盾無く説明することができなくなって破綻し、準定常宇宙モデルがまた主流になることがないとはとても言えないのです。


そして、準定常宇宙モデルが宇宙の真の姿だとしたら、この宇宙空間に、完全に安定な空間を作り、現在知られていないさまざまな原理の応用で、いかなる事故が起きても、絶対に脳が破壊されないような仕組みが作られたとしたら、完全な不死が実現するかも知れないのです。


あるいは、ビッグバン理論の方が正しかったとしても、現在発見されてないなんらかの原理により、別の宇宙へ移住する方法が見つかるかも知れません。
その場合、宇宙が終焉を迎える前に、引っ越しをし続けることにより、不死が可能になるかもしれません。


ここでポイントとなるのは、少なくとも、そんなとてつもない未来の話は、われわれの判断能力の外にある話で、それが原理的に可能だとか、不可能だとか、その確率が高いとか低いとかそういうことを、いまのわれわれは、判断するための物差しを持ち合わせていないということです。
すなわち、「人は必ず死ぬ」ということが真理であるかどうか、われわれには判定不可能なのです。


ここで、いくら死ぬ確率が少なくなっても、死ぬ確率がわずかでもあるかぎり、無限の時間が流れれば人は必ず死ぬはずであるかのようにも思えます。ゼロではない確率のものを、無限回繰り返せば、思考が成功する確率は限りなく1に近づきます。つまり、生き続けられる確率は、無限に小さいわけです。


しかし、その理屈をつかうと「幽霊は必ず存在する」ことが証明できてしまいます。
ときどき、「幽霊の存在する証拠がみつかった!」と主張する人たちがよくいます。それによって実際に幽霊が存在することが証明されてしまう確率はとても低いかも知れないけれど、ゼロではない。
そして、ゼロではない確率を、無限に繰り返せば、成功する確率は無限に1に近づきます。
ということは、幽霊の存在が証明される確率は、無限に1に近づいていくわけです。
確率が無限に1に近いということは、幽霊の存在は、ほぼ確実に証明されるわけです。
ということは、幽霊は存在するわけです!


この妙なロジックの仕組みは、どうなっているのでしょうか?
まず、もともと幽霊が存在すれば、心霊現象によって、幽霊が存在することが証明される確率はゼロではないので、無限にそれを繰り返せば、ほぼ確実に、いつかは幽霊の存在が証明されます。
しかし、もともと幽霊が存在しなければ、心霊現象によって、幽霊が存在することが証明される確率はゼロです。したがって、「幽霊が存在する証拠がみつかった!」という報告が無限回繰り返されようとも、幽霊が存在することが証明されることはないのです。


不死のテクノロジーもこれと同じで、もともと、「絶対的に安定した宇宙空間に、死の確率が完全にゼロのシステム」などは作り得なくって、どんなに完全なシステムを目指し、限りなく死の確率を小さくしていっても、確率を完全にゼロにすることができなければ、無限の時間が流れれば、ほぼ確実に、いつかは死ぬわけです。


しかし、もともと「絶対的に安定した宇宙空間に、全分子を完全にコントロールすることにより、死の確率が完全にゼロなるシステム」を作り得るのだとしたら、その状態を作り上げることに成功した時点で、その後、無限の時間が流れても、死はやってきません。


それが可能かどうかは、たとえば、どのような状態をとっても、絶対に自己破壊の起きないことが数学的に証明されているチューリングマシンとなっているような、量子レベルから完全に制御されているシステムを作成可能かどうか、あるいは、原子を構成する全量子が、とてつもなく低い確率でとんでもない値をとることを、数学的に完全に防ぐ仕組みが作れるか、いや、現代の我々の知性では、全く想像もつかないような仕組みを、現在知られていない原理を応用して作った場合も含めて検討しなければ判らないのではないでしょうか?


すなわち、必ず死ぬかどうかは、このような「死の確率ゼロ」のシステムを作れるかどうかに依存しており、それが可能かどうかを、現在の我々の判断能力で判定不可能な限り、「人は必ず死ぬ」とは言えないのではないでしょうか?


また、もちろん、これらの議論は、「死」の定義によります。
たとえば、20年後に、自分の体が凍結保存され、200年後に復活したとしても、自分が慣れ親しんだ風景も建物も愛する人々も、は全て無くなっており、そんな世界で生きていても、なんの喜びもなく、そんなものは、とても生きているとは言えない。だから、たとえ、凍眠技術で200年後の世界に復活できることになったとしても、それは「生きている」とは言えない、という考え方もあります。


つまり、生きている意味がないのだから、それは、「死」と同じだという考え方です。


しかし、id:finalvent氏、中島義道氏、竹田青嗣氏、大森荘蔵氏、いや、ハイデガーの時代まで含めた無数の哲学者たちに「発狂しそうになるほどの恐怖」を与え、膨大な思索に駆り立てた「死」とは、自己意識宇宙の絶対的終焉としての「死」であり、単に「生きている喜びの味わえない状態」などではないでしょう。


もちろん、彼らに「発狂しそうになるほどの恐怖」を与えているのは、「自分が必ず死ぬ」ということではなく、「自分が死ぬ(=絶対的な無になる)かもしれない」ということであり、「人は必ず死ぬ」とは言えないことが証明されたから、彼らの思索が無意味だったということにはなりません。


また、死んだら無になるかどうかなど、昔から不可知とされており、いまさら、必ず死ぬとは言えないということを議論してみたところで、条件は何も変わらない、という見方もあるでしょう。


しかし、彼らの多くは、「科学的世界観こそが正しいのだ」、という直感に基づいて思索を重ねているように感じられます。すなわち、人間の本質を説明するのに、安易に、魂とか、来世とか、超自然的なのものに頼るのは逃げだ、というストイックな直感です。


そういう直感を持っている人間にとって、安易に死後の世界を想定するのは感覚的に受け入れがたく、また、「死んだらどうなるかは不可知だ」、というのは、理屈の上では正しいかも知れないが、おそらくはただの理屈に過ぎず、それをもってして、不滅の魂のようなものがある可能性も十分にある、と楽観的な気分になることなど、とうてい出来なかったでしょう。


そういう人間が、「自分がいつか死ぬこと」に対して「発狂しそうになるほどの恐怖」を感じた場合、もちろん、その恐怖の正体を見極めてやろうと思索を重ねることは、十分に合理的な行動ではあるものの、「死を避ける」ための具体的な手段の検討にろくに時間とエネルギーを割かず、ひたすら、死とは何かの思索を重ねたり、死をどのように受容するか、という方向にばかり時間とエネルギーを重ねるのは、なぜなのでしょうか?


ここには、もしかしたら、「死は絶対に避けられないものである」という思いこみがある可能性はないでしょうか。そこを、はじめから自明のこととして決めつけ、それについて十分な検討をすることを思考停止するような、ある種の思考の不健全さのようなものがないのでしょうか?


「発狂しそうになるほど」死を嫌悪しているのに、「死が絶対に避けられないものであるかどうかは、我々には判断不可能かもしれない」という可能性に目を向けず、ひたすら死についての思索ばかりするというのは、「発狂しそうになるほど」嫌いな死を避けることよりも、ひたすら死について思索することの方が、彼らにとっては大切だったのでしょうか?


これは、「発狂しそうになるほどモテたい」にもかかわらず、絶望的な非モテである男の子が、ひたすら非モテとは何かを深く深く思索するのに、ろくにモテるようになるための可能性について検討していないのと、どこが違うのでしょうか?


もしかしたら、「モテる可能性が絶対にない」とは言えないかもしれないのに、なぜか、それを一切検討しない。
「発狂しそうになるほど」モテたいのなら、モテる可能性が完全に絶望であるかどうか、まずそれを検討してみないのは、もしかしたら、不健全な行動なのではないでしょうか。


この意味で、ひたすら深い思索を重ねる人間には、どこか不健全な臭いがつきまとっているように感じられることがよくあるのです。とてつもなく深い思索をする哲学者なんかより、むしろ、無邪気にテクノロジーによる不死を夢見ちゃうような川島隆太教授の方が、健全なんじゃないかという気がすることが、ときどきあるのです。

*1:ある程度以上劣化が進むと、細胞内の自爆装置が作動して、細胞は自殺すると考えられています。これをアポトーシスと言います。

*2:もちろん、これは、人間の場合、ということであり、たとえば、基礎老化学・分子生物学の研究者の書いたISBN:4062573172、ブリなどの魚は、かなり成長しても、いまのところ老化の兆候が確認されたことはなく、ブリに寿命があるかどうかは、まだ未確認のようです。(老化学の世界的権威であるカークウッドのISBN:4879191515、イソギンチャクの例をあげてます。人間の細胞の例だと、もともとはガン細胞だったHaLa細胞は、1951年以来、ずっと研究室の中で分裂増殖し続けているのに、老化の兆候がみられず、不死性を獲得したのではないかと言われているようです。) なぜなら、「老化しないこと」の証明は、悪魔の証明なみに難しいからです。1000年ブリを飼い続けて、老化の兆候が見られなかったとしても、1001年目に老化するかもしれないのです。もしかしたら、ほ乳類のように体温を一定に保つために膨大なエネルギーを費やす必要のないブリは、細胞の分子構造の破損修復システムに、より多くのエネルギーをかけることができ(エネルギー通貨であるATPをより多くそこに使えるとか)、そのため、細胞の分子構造が劣化しないのかもしれません。老化に関係する対となる遺伝子のうち片方だけ変異したショウジョウバエは、寿命が2倍になったが、両方が変異したショウジョウバエは、すぐに死んでしまったという研究結果もあります。細胞の分子構造の修復を、より完全に行う分子機構が動作し、その機構が膨大なカロリーを消費したため、餓死したのではないかとも考えられます。

*3:いまのところはまだ、たいした成果が出てないようですが。