身の程を知らない人間が身の程知らずをするのは単に醜いだけ

ある程度身の程を知っており、「十分には身の程を知り得ない自分」といものを知っている人は、人に「勝ち組」「非モテ」「ニート」などの「身の程」を押しつけられても、たいしてストレスを感じない。ひっかからない。また、ある程度は知っている身の程に安住していいのかどうかでも悩んだり迷ったりはしない。「身の程を疑え」と言われても、「あー、ふつーみんないつもそうしてんじゃね?」ぐらいにしか思わない。
身の程知らずな人間が見当違いの身の程知らずをするのは、たいていの場合、単に、無謀か、未熟か、醜いだけだ。ほんとうにカッコイイのは、身の程を知っている人間が、自覚的に身の程知らずなことをすることだ。
そして、もっとカッコイイのは、自分が自分の身の程を十分には知っていないし、今後も十分には知り得ないことを十分に自覚したうえで、身の程知らずなのか、身の丈にあったことなのかすら分からないことに、自分の身の丈との差異を見極めながら、挑戦し、その過程で自分と世界を見いだすことだ


。。。いま読み返してみたら、それはカッコイイとか言わんな。あたりまえだあたりまえ。またつまらんものを書いてしまった(石川五右衛門風)。


http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50357561.htmlより引用。

身の程を知るというのは、実に甘美である。受け入れてしまえば、もう自分が何者かなどというイタイ疑問に苦しめられることはない。「きみは勝ち組」「きみは負け組」「きみはヒルズ族」「きみはニート」....これほど世間に身の程を知らしめる言葉が溢れた時代がかつてあっただろうか?総理から占い師に至るまで、ありとあらゆる声が君の身の程を教えようとする。あたかもそれらの言葉が、身の程を疑う苦痛を癒してくれるかのように。

で、それで君はいいのか?

君は人に教えてもらった身の程に満足して、人に教えてもらった人生を選ぶのか?