おとぎ話が人を鬱と自殺に追い込む。おとぎ話をはぎ取ると絶望回路と無気力回路が作動する。


つまるところ、その崇高さとは一切関係なく、道徳も、科学的な世界観も、与える愛も、おとぎ話の一種にすぎない。
それらは、神話や宗教のように「子供だまし」のおとぎ話ではないかもしれないが、「大人だまし」のおとぎ話にすぎない。


そして、一切のおとぎ話をはぎ取ると、「無気力回路」や「絶望回路」が作動を開始する。


そのことを、本能的に知っている「賢い」人々は、おとぎ話を受け入れて生きる。
この意味で、科学的な世界観を受け入れる人も、社会的・道徳的な生き方を受け入れる人も、愛する人やもののために生きる博愛主義者も、UFOに乗った宇宙人に永遠の命を与えられたと信じる人も、狂信的なカルトを信じる人も、本質的な違いはない。


そして、一切のおとぎ話をはぎ取った後に現れた「自分」という存在自体もまた、「おとぎ話」にすぎない。


たとえば、「死を恐怖する自分」という存在は、一つのソフトウェアシステムに過ぎない。
ほ乳類のような高等な生物の脳には、
「自分の死を予測する」→「死を嫌悪し、避けようとする」
という単純なプログラムが組み込まれている。


これにより、高等生物は、「近い将来」の自分の死を予測し、それを回避する。


そして、大脳が発達した人間は、「遠い将来」まで予測できるようになった。
これにより、
「遠い将来の自分の死を予測する」→「死を嫌悪し、避けようとする」
という、回路ができあがってしまった。


これは、本質的に、実行不可能な行動に生物を駆り立てる「絶望回路」である。
なぜなら、あらゆる生物は「遠い将来」には必ず死ぬから、その死は回避不可能だからだ。


この絶望回路に駆り立てられ、ピラミッドがそびえ立ち、秦の始皇帝は不老不死の薬を求めた。


しかし、より賢い解決法は、この絶望回路自体をハックし、書き換えて、絶望回路が暴走するのを防ぐことだ。
このハッキングこそが、神話や宗教などの「おとぎ話」を受け入れるという行為だったのだ。


さらに、ほとんどの人間的努力の結果は、おとぎ話によってしか意味づけられない。
したがって、一切のおとぎ話をはぎ取ると、一切の人間的努力の結果は、無意味となる。
あとに残るのは、近視眼的な、刹那的な欲求を満たすための、動物的な行動だけだ。
こうして、「無気力回路」が作動する。
人々は、これを本能的に知っていたからこそ、さまざまなおとぎ話によって、人間の行動を価値付け、社会を形成してきた。


しかし、一方で、近代文明は、おとぎ話をはぎ取り続けることで、発展してきたのもまた事実だ。
工場の機械が故障したとき、その原因を霊や悪魔や神などの「古いおとぎ話」に求めると、問題は解決できない。イノベーションは起きない。能率は上がらない。経済は発展しない。
一切の古いおとぎ話(=超自然的な原因説明、「罰当たりなことをしたから、機械が故障したのだ」云々)を拒否し、純粋に現実的な原因説明を求めることでのみ、機械は修理され、動き出す。*1


また、国家やイデオロギーというおとぎ話は、全体主義、ナチズム、スターリニズムを生み、数々の悲劇をもたらしてきた。
このため、前世紀、人類は、ありとあらゆる「おとぎ話」を解体し、はぎ取り続けてきた。


その結果、せっかく「おとぎ話」という重石によって、封印されていた「無気力回路」と「絶望回路」が、作動を開始してしまった。


永遠の時の流れの中で、「自分」という存在は、ほんの一瞬だけ現れて、すぐに消えて、あとには何も残らない。あとには、無限の闇が横たわるだけだという現実を突きつける。
もとより、自分という存在は、限りなくゼロに近いが、かろうじてゼロではないと言う程度の、ささやかな存在でしかなかったということを、人々に思い知らせる。


この「現実」は、人々に「身の程」を思い知らせ、「謙虚」にさせる。
しかし、一切のおとぎ話抜きに、この現実に直面すると、無気力回路や絶望回路が作動する。


そして、おとぎ話の解体によって作動を開始してしまった絶望回路や無気力回路を押さえ込むため、一部の人々は、あわてて即席の、いかにも言い訳じみた「おとぎ話」を捏造する。無意識のうちに。
曰く、「限られた命だからこそ、今を精一杯生きようとするのだ。」
曰く、「永遠に生きるのなんて、退屈だよ。」
曰く、「年を取って死んでいくのが、人間にとって自然なことなんだよ。」


これらはどれも、過去のおとぎ話の粗悪な模造品であるか、単なるごまかしでしかない。


ところが、幸いなことに、これらの即席のおとぎ話を、そもそも必要としない幸せな人々が、圧倒的多数なのだ。


なぜなら、圧倒的多数であるかれらは、常にぼんやりと生きており、わざわざおとぎ話をはぎ取って、むき出しの現実を直視する、などという悪趣味なことをやらないからだ。
かれらは、おとぎ話の中で、ぼんやりと生き、ぼんやりと死んでいく。後には何も残らない。


しかし、人を不幸にするおとぎ話も多い。
そして、ぼんやりと生きている人は、有害なおとぎ話に絡め取られたとき、そこから脱出するすべを見失う。
おとぎ話によって、自分の人生が、どす黒く染め上げられたのを見て絶望し、鬱になる。
酷い場合は、自殺してしまう。


そして、そんなおとぎ話を信じて絶望して自殺するのは愚かだと、おとぎ話をはぎ取ればいいのだと、したり顔でアドバイスする人たちが出てくる。


そして、ご都合主義でおとぎ話をはぎ取ったりでっち上げたりすることを平然と正当化する厚顔無恥の輩が、世の中にあふれている。


一方で、そうでない誠実な人間は、一切のおとぎ話をはぎ取るという無謀な行為によって、絶望回路が作動し、残酷な現実に痛めつけられ引きずり回され、疲弊する人生を送る。


しかし、すべてのおとぎ話をはぎ取った後に残る、この絶望回路の作動している状態もまた、おとぎ話なのではないだろうか?
「自己意識宇宙の絶対的な終焉である死を、発狂しそうになるほど恐れ、嫌悪する」という絶望回路を「書き換えてはいけない」という前提こそが、そもそもおとぎ話ではないのか?


「一切のおとぎ話を引きはがした」後に残る、絶対的絶望を直視する、という、一見、潔い行動は、実は、「自己意識宇宙の絶対的な終焉である死」という「おとぎ話」を見つめていただけではないのか?


死の恐怖は、死が永遠の絶対的虚無であることからやってくる。
しかし、そもそも、「永遠」など「存在」するのだろうか?
われわれは、「永遠」という名の「おとぎ話」に踊らされてはいないか?


「永遠」もまた、「神」や「天国・地獄」と同じくらい、単なる「おとぎ話」に過ぎないのではないか?
「永遠」という概念は、世界解釈のつじつま合わせに必要なだけの、概念ツールに過ぎないのではないか?
「永遠」は、自己意識宇宙を構成する、便利ではあるが、必ずしも重大な意味を持つとは言えない、ピースの一つに過ぎないのではないか?


本当は、「永遠」も「存在」しなければ、「無限」も「存在」しないのではないか?
百歩ゆずって、それが存在するとしても、それは、それほど「意味」のあるものだろうか?
それは、「それほど大げさな意味のあるもの」なのか?


そして、絶望回路もまた、おとぎ話の一つに過ぎないのなら、そこもまた、おとぎ話プログラミングによって、自由に書き換えて良い場所なのではないだろうか。


もちろん、おとぎ話プログラミングは、ある程度までは自由に変更できる自己書き換え系(Reflective Programming)ではあるけれども、実際には、それほど自由にプログラム変更できるわけではない。
なぜなら、遺伝子プログラム(OS/ライブラリAPI)とつじつまの合わないようなおとぎ話プログラム(アプリケーションソフトウェア)は、破綻(暴走/システムダウン)する運命にあるからだ。

人生はゲームに過ぎないと考えたがる人たち

なぜそうなるのかというと、われわれの情動や直感や無意識は、すべて、教育や文化のような、後天的なソフトウェアによって作られているわけではなく、無制限に書き換え可能なものではないからだ。

情動や直感や無意識を生み出しているのは、億年もの時をかけてチューニングされつづけてきた、我々のニューロン神経伝達物質、ホルモン、そして、細胞レベルにまで及ぶとてつもなく高度で複雑な分子的構造体だ。それは、我々が考えているほど、我々の自由になるものではない。

情動、直感、無意識、フィーリングはそういったものによって強く支配されている。


そうすると、あとに残るのは、おとぎ話プログラミングによって、変更できない、物理法則と遺伝子だけだ。


そして、何百年かあとに、遺伝子(OS/ライブラリAPI)をも自在に書き換えられるようになった我々は、いまよりは、ずっと不幸が少なくなっているかもしれない。


なぜなら、不幸とは、自分というソフトウェアシステムの、バグと不十分な最適化と矛盾回路によって引き起こされているものだからだ。


少なくとも、いまの人間よりは、バグが少なく、より最適化された、より矛盾の少ない人間システムになってはいけるのではないだろうか。

*1:こうして、それまで、日常空間のあらゆるモノに宿っていた魔的な生命は、経済と科学技術というおとぎ話によって、すべて虐殺された。森の精霊、魔法使い、小人たちの跋扈する、魔的な生命に満ちあふれた、魅力あふれる世界は、すっかり殺菌消毒され、無味乾燥な物理法則に支配された、退屈な分子運動体系に作り替えられた。その結果、冷蔵庫、自動車、パソコン、ケータイ、電車などの、豊かな物質文明をわれわれは享受している。そして、多くの人は、経済と科学技術というおとぎ話を、根拠もなく、信じるようになった。それは、能率良く物質的豊かさをもたらすのに都合のよいように矛盾無く作られた、さまざまな空虚な概念ツールの集合体に過ぎず、現実とも真実とも異なるものだということにも気づかずに。